2009/07/10

白村江と倭国(16) ~常識で考える日本古代史85

5.4. 白村江の戦い(終)

前回のあらすじ
白村江の戦いは、船の性能でも武器の性能でも劣る倭軍が、陣形の整った唐軍にいたずらに突撃し、その上風向きや潮の流れもみなかったことから、大敗を喫する結果となった。エチノタクツは孤軍奮闘したが、最後は戦死したと伝えられる。

白村江で倭軍の船団が全滅してから八日後の九月七日、ツヌ城は降伏した。頼みの綱である倭国の援軍が来ない以上、やむを得ない降伏であった。このあたりの経緯について、日本書紀の記事は淡々としている。

百済の人々はこう話し合った。「ツヌ城は降伏し、百済の名前は絶えてしまった。事ここに至っては、どうしようもない。先祖の墓所にも、再び行くことはできないだろう。テレ城まで逃れて、後のことは倭の将軍達と相談するしかない」そして、妻子に、百済を去る決意を示したのであった。

テレ城とはどこなのか、百済が滅亡してしまったので確かなことは分からない。おそらく朝鮮半島南岸で、対馬に渡ることができるどこかの海岸近くではなかったかと思われる。ちなみに、朝鮮半島南岸からは、晴れた日には対馬を望むことができる。

いまも昔も、戦争に敗れて他国に逃れることができるのはある程度の財産を持った上流階級の人々であって、一般庶民は新たな支配者の下で耐えるしかない。ベトナム戦争終結時の難民もそうだし、今日脱北して中国の日本・韓国大使館に逃げ込む人と同様である。

百済を逃れた人の多くも、旧支配者層であったり、先端技術者であったりした。彼らはこの後日本に渡り、奈良時代以降急速に進められた技術革新に大きく寄与することとなる。

こうして日本書紀の記事をみてくると、全体の印象として、書紀の作者達は白村江の敗戦をあまり悔しく思っていないということがよく分かる。二万数千の大部隊を派遣し、逃げた者はいたにせよ相当の戦死者が出たにもかかわらず、個人名であげられている戦死者はエチノタクツのみということにも、そのことは現れている。

もっというと、白村江以前の記事の中にも、「これは百済滅亡の予兆ではないか」「占ったところ、高句麗・百済が日本を頼ってくるという結果が出た」など、縁起でもないことが何ヵ所かに書かれている。もしも白村江以前にそんなことを公言していたとしたら、当時そんな言葉はないが「非国民」と言われても仕方がないであろう。

ましてや敗戦後に、「負けることは分かっていた」ようなことを書いて、当時の指導者や戦死者の遺族が面白いはずがない。にもかかわらずそういうことが書かれていて、しかも敗戦の記事がきわめて簡単に、たいして感情移入もされていないということは、どういうことなのだろうか。

おそらくそれは、書紀の作者たちにとって、白村江の敗戦が他人事ということなのである。つまり、近畿・大和朝廷の人々は直接白村江に関わっていない。さらに、白村江の敗戦によって、近畿・大和朝廷の日本列島における相対的な地位が上がったとすれば、日本書紀でこのような書き方がなされていることもうなづける。

ということは、以前に書いた結論、「日本列島における代表的な政権が、白村江以前は倭国、白村江以降はじめて日本=近畿・大和朝廷になった」ということである。教科書にはそう書いていないが、常識で考えるとそうなる。そしてそう考えると、天智天皇に関するいくつかの疑問点にも、納得のいく回答が得られるのである。(この項終り)

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2009/07/09

IBF世界バンタム級タイトルマッチ展望

IBF世界バンタム級タイトルマッチ(7/11、米フロリダ)
   チャンピオン ジョゼフ・アグベコ(ガーナ、26勝22KO1敗)
○挑戦者 ビック・ダルチニアン(アルメニア、32勝26KO1敗)

このブログでも何度も言及したことのある、歴代パウンド・フォー・バウンドの一人である元3階級世界チャンピオン、アレクシス・アルゲリョ(マナグア市長)が去る7月1日拳銃自殺したとのニュースが入ってきた。享年57、痛ましいことである。名声と地位、大金を手にした者が平穏な晩年を送るというのも、なかなか難しいことなのかもしれない。

さて、17階級4団体あるプロボクシングの世界チャンピオンのうち、日本人のチャンピオンがクラス最強とみなされているのは、現在のところ唯一WBCバンタム級王者の長谷川穂積だけである。しかしこの試合が終われば、世界的にはこの試合の勝者がバンタム級最強ということになる可能性がきわめて大きい。

やはり注目されるのはダルチニアン。フライ級、スーパーフライ級と制覇して、3階級目。パンチのパワーは、3ポンド(1.5kg)上のこの階級でも十分以上に通用するであろう。ただし、フライ級最後の試合でノニト・ドネアにKO負けしたように、決して打たれ強い訳ではないので、相手の破壊力も増すことに対しては、若干の懸念が残る。

チャンピオンのアグベコはガーナ出身。2004年頃まではアフリカをベースに戦っていて、戦績をみるとガーナ、トーゴ、ナイジェリア、コートジボアールなど各地で試合している。唯一の負けは安定王者シドレンコに0-2判定だから、接戦だったようだ。一昨年あたりから米国で戦っていて、昨年7月、ルイス・アルベルト・ペレスを破ってチャンピオンとなった。

アフリカで戦っていた頃は、ほとんどの試合をKOで片付けている強打者であるが、さすがに本場ではそういう訳にはいかないようだ。とはいえ、アフリカン・ボクサー独特の身体能力があり、体格も下から上がってきたダルチニアンより上。ネームバリューでは劣るが、もしかするとダルチニアンの強打を封じ込める可能性もある。

ダルチニアンは体のバネで打つ選手であるので、ある程度の距離をおいての打ち合いを望むだろう。アグベコも体格差を生かしてダルチニアンを中に入れなければ勝機はあるだろうが、さてそううまく行くかどうか。やはり幾多のビッグマッチを勝ち抜いてきたダルチニアンの方が、より大舞台慣れしているので力を発揮するのではないかと思う。

予想はダルチニアン。アグベコも体力がありそうなので判定勝ちが本線。ダルチニアンがあっさりKOでこのクラスも制するようだと、大変おもしろい。来週防衛戦のある長谷川と絡むことになれば、日本のファンとしてはたまらないのだが・・・。

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2009/07/08

ふるすたHORSE ~ポーカーの奥深い世界86(完結編)

4周目。すでに6時半を回り、残りは2テーブル。あちらではセカンドトーナメントが始まっている。3テーブル目のブレイクでkurodaさんが入ってきて、盛んにスチール。このあたりのブラインドになると、スチールの上手い人がペースを握ることが多い。こちらはホールデム、オマハではチャンスが来ず、ブラインドと様子見参加の分だけチップが減る。

そしてスタッドに入ってラズ。手持ちチップは15000点ほど。ホールカード34、ボードで参加。周りもローカードが多いのが気になるが、2枚目でA。ベットすると、タッキーさんとmakkooさんがついてくる。makkooさんと私は、このまま行くとオールインになりそうだ。3枚目、これで8ロー完成、ここはコール。そして4枚目、どんどんハンドが上がる。

ここでタッキーさんのベットにリレイズオールイン。makkooさんはすでにオールインしている。あちらには絵札が見えているので、7ローはおそらく勝っているだろうと思ったのに、残念ながらタッキーさんには6ローができていた。ラストカード2が引ければ逆転だったのだけれど、そううまくはいかず。makkooさんと仲良くゲームオーバーとなる。4周目のラズだから、およそ360分、6時間粘った(ちなみに、優勝は私のバウンティでもあるタッキーさんでした)。

引き続き、セカンドトーナメントに参加。め社長差し入れのビールとワインをいただきながら、まったりとプレイする。このトーナメントでは、珍しくAハイカードにたいへん恵まれた。

参加早々、ATからフロップATx、ターンでフルハウス。続いてAKからフロップAKxの2ペアで、30000点スタート(WSOPメイン仕様だそうである)のチップは5万点弱に増えた。ところが調子に乗ってAQで金持ちオールインをしたところが、AKのまりさん、あとお一方QQに受けられて、開いた途端ほとんど勝ち目のない状況となり大きくチップを減らす。

ところが、残り1テーブルまで粘っていたところ、AQで再びまりさんとオールイン対決。まりさんのペアが3本になってこりゃだめだなと席を立ちかけたところ、リバーまでスペードが4枚でAsが復活、私のチップも復活したのである。

最後はtoe(とー)さんとのヘッズアップ。20万点対40万点くらいから一進一退あって、じっくりとフロップ開いてからの勝負となる。T6vsT2でお互いフロップのTがセカンドヒット、ターン6、リバー2となって、最後お互いのハンドの読み合いとなったのは楽しかった。このあたり、この夜はちょっとだけ運が向いていたようだ。

ラストハンドはJ8vsAK。フロップJTxでたまらずオールインしてしまったが、ターンリバーだっただけに、我慢して脳みそに汗をかくような読み合いをしないといけなかったな、と反省。ともかくも優勝。セカンドとはいえ、Player’sになってから入賞したのは初めてのことである。

時計をみると11時半。もう電車がなくなる時間になってしまった。おやつにどら焼きを食べたきり、この時間までお腹に入ったのは、め社長のビールとワインだけであった(め社長ごちそうさまでした)。ゲーム勘はそれほど鈍ってはいなかったけれど、さすがに11時間ぶっ通しのポーカーで、半死半生の状態で家路に着いたのでありました。

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2009/07/07

ふるすたHORSE ~ポーカーの奥深い世界86(続き)

2周目はホールデムがSB150/BB300、スタッドが500-1000。このあたりで、仕事が終わって直行されたsaekoさんが下に入る。

久々のポーカーであるし、長丁場のリミットゲームで手を絞るのも良し悪しというところがあるので、手がかりがあれば参加していたのだけれど、すかさずmaosさんとPsykaさんに見破られて、「今日は参加率が高いですね」と言われてしまう。実はスタッドゲームには、苦い(w)思い出があるのだ。

何年か前のDUKE、ゲームはこの日と同じHORSEのラズ。相手は後のAPTチャンピオン看板にゃtasakaさんである。勝負どころのボード3枚出たところで、こちらは出来上がりの7ロー。あちらはボードにローカードのペアがあり、現時点ではボードだけ見ても私の勝ちのはずであった。

当然ベットしたけれども、コールされる。それはいいとして、次の4枚目、こちらはラグ、あちらは7より上のカード。続けてベットするが、なんとレイズされたのである。そして、リレイズ、コールの後、最後のカードで6ローを引かれて逆転されてしまった。それが致命傷となって、そのゲーム自体もそこで飛んでしまったのである。

残り2枚の時点でこちらの7ローは見え見えで、相手からすると逆転の引き目は最大8枚。その時は、何で下りないんだ全く・・・と思っていたのだけれど、後から考えてみるとリミットなので1回のベット額が相対的に小さく、ポット量次第で完全にオッズが合ってしまうのである。

よく似たケースが今回もあった。2周目のセブンスタッドハイ、私は4枚目まですべてスペードである。残り9枚のうち、見えていないのは7枚。残り3回引ければ半分くらいの確率でフラッシュになる。ベットされてコーるとして追加投資はあと2000点、ポットにそれ以上はあるのでオッズは合う。問題は相手関係である。

相手は2人。一人は2ペアないしストレートドロー。もう一人はボードにペアがあり現状3本の可能性がある。仮にこちらがフラッシュを引けたとして、フルでは届かない。そう思っていたら、4枚目が出た後、ストドロの方がベット、ボードペアの方が下りてくれた。比較的安心して付いていけて、最後の1枚でようやくスペードが到着、大きなポットを獲得できたのであった

ここで再び水面上に浮いて、2周目もプラス2000点で通過。すでに200分、3時間以上が経過した。3周目になると急に厳しいストラクチャーとなって、ホールデムがSB400/BB800、スタッドが1200-2400である。ようやくそれぞれのテーブルでゲームオーバーの人が出始めて、いよいよ勝負どころである。

3周目の途中でシートチェンジ。次のテーブルではかずさん、せりえさん、makkooさんとご一緒させていただく。さすがにこのあたりになると、安易に参加するとあっという間にチップがなくなる。こうした実力者相手だと、スチールされまくりになるのでレイズについていきたくなるのだが、がまんできる間はがまんするのが大事と自分に言い聞かせる。

幸いにセブンスタッドでボードにAが2枚落ちたりして、なんとか辛抱が報われた。開始から5時間、ようやく3周目が終わってチップは2万点。次の4周目はホールデムがSB900/BB1800、スタッドが2500-5000である。スタッドの後半でレイズすると10000点、あっと言う間にオールインという状況となった。(この項続く)

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2009/07/06

ふるすたHORSE ~ポーカーの奥深い世界86

サラリーマン生活最強のスケジュールであった6月をなんとか乗り切って、7月になった。

自分自身が行けなかったラスベガスWSOPの途中経過や結果はあえて見ないようにしていたのだけれど、終盤戦のイベント#55、デュース・トゥ・セブンで、またなかさんが準優勝第2位(!)というビッグニュースが飛び込んできた。まずもって、おめでとうございます。

デュース・トゥ・セブンは、5枚配られるドローポーカーのゲームで、通常のポーカーで強い方が負けというルールである。トリプルドロー、つまり3回引き直すことができるが、引くことが有利とは限らない(役ができるとかえって弱くなる)ので、アクションの選択肢が広い。それだけ駆け引きの利くゲームで、運より腕の占めるウェイトが大きいと思っている。

そのゲームで世界2位(!)のまたなかさんは、上野の部室の常連であり、先月AJPCメインの隣の席でも一緒にプレイしたくらいのおなじみさんである。ここ数年、よくプレイする方々が次々と世界の舞台で活躍されているのは非常にうれしいことで、なんとかみなさんに続きたいと改めて思っているところである。

さて先週の土曜日、プレイするのはAJPC以来1ヵ月半ぶりのことである。この日のトーナメントはFull Stacks改めふるすた、ゲームはHORSEである。デュース・トゥ・セブンは入っていないけれども、ミックスゲームというのはまたなかさんのニュースの後ではタイムリーではなかろうか。出張続きで疲れてはいるけれども、気合を入れて蔵前へ。

定刻の12時過ぎにコーナーポケットに到着。主催者のfullhandこばやしさん、世話役(?)のhirobowさんはじめ、顔なじみのメンバーにごあいさつ。りえさんやかずさん、せりえさんなど、部室常連の方々とも久々にお会いしてなつかしい。やはり話題は、またなかさんの活躍とか、LVに長期滞在中のいのさん (# ゚Д゚) のことになる。

12時半にゲーム開始、スタートチップは12000点。ただし、各ラウンド20分なので、ホールデム(H)、オマハ(O)、ラズ(R)、セブンスタッド(S)、エイトオアベター(E)と1周すると100分つまり1時間40分になり、常時参加しているほどの余裕がある訳ではない(常時参加して1周目で飛びそうになった人もいたようである)。

また、みんながやり慣れているホールデムはリミットで、しかもゲーム時間は1/5。勝負はむしろ、あっという間にポットの大きくなるスタッドゲームになると思われた。そして、3周目のスタッド(RSE)は1200-2400、打ちっぱなしになれば原点持っていたとしてもいっぺんに命がけである。勝負はこのあたりになるだろう。

指定されたテーブルに着くと、上がりえさん、下がmaosさん、対面にPsykaさんとAzo.さんといったおなじみの面々。1周目はホールデムがSB75/BB150、スタッドが200-400なので、何回か引きに行って失敗してもダメージは大きくない。逆に、ハイハンドが来たとしても深入りして傷口を大きくすることは避けたい。

最初のホールデムで、KKが来てリンプインするが、フロップAが出てあっさり下りる。一方、56で参加して、6がボードに2枚出て勝ったりする。なんとなくうれしいのは、妙なものである。1周目の100分が終わって2000点ほど浮いている。まだ、誰も飛んでいない。勝負はまだまだ、これからである。(この項続く)

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2009/07/03

白村江と倭国(15) ~常識で考える日本古代史84

5.4. 白村江の戦い(続)

前回のあらすじ
白村江の戦い当時、倭国には大型の軍船を作る技術も、金属製の武器を装備する資源もなかった。加えて、それらを入手する経路である朝鮮半島南部は、敵国である新羅の勢力下にあった。兵站、つまり物資の補給にも苦労したのではないかと思われる。

輸送力と兵の装備のいずれの面でも不利な倭国が、白村江河口の唐軍の包囲網を突破するには、少なくとも作戦面で上回っていなければならなかったが、どうやらこの点においても倭国は失敗したようである。その経緯は、日本書紀によると以下のとおりであった。

八月二十七日、先着した倭軍と唐軍との間に交戦があり、倭軍は負けて退いた。唐軍は深追いせず、陣形を整えて待機した。翌二十八日、倭軍の本隊が到着した。百済王と倭軍の諸将はこう相談した。「われわれが先を争って突撃すれば、敵は後退するに違いない」

軍船の性能でも、攻守の武器の性能でも劣る倭軍が、いたずらに正面から攻撃しても勝つことは難しい。それも、奇襲するとか全軍が一斉攻撃するならともかく、到着した部隊から順に突撃するのは、戦力の逐次導入といって戦略的にはたいへん拙劣な方法である。

倭軍は乱れた隊列で、唐軍の堅陣に対し正面突破を図った。唐軍は倭の軍船を左右から挟み撃ちにして戦った。あっという間に、倭軍は敗れた。

戦力が劣っていても精神力(気合)で勝てると考えるのは、日本にとって伝統ともいえる考え方である。きわめて愚かな作戦とは思うけれども、倭軍であればそういう考えで突撃するのはある意味当り前なのかもしれない。同様のメンタリティは、白村江から1300年後の太平洋戦争でも、根強く残っているくらいである。

その上、倭軍は風向きや潮の流れもほとんど考慮していなかった。下の「気象」という単語は書紀でも使われている。今日の意味と、ほぼ同じであると考えられる。

気象を考えずに戦ったため、船の向きを変えることすらできず、海中に落ちて溺れ死ぬ者は数知れなかった。エチノタクツは、天を仰ぎ、歯を食いしばって戦い、数十人を殺したが、遂に戦死した。百済王は、数人の部下とともに、高句麗方面へと逃げた。

ここで再び、エチノタクツの登場である。日本書紀の白村江の戦いに関する記事は、ほとんど以上の内容で終わる。登場人物は、百済王、諸将(ひとまとめ)、エチノタクツだけ。これでタクツが書紀の紹介どおり、将軍でも副将でもない地方の豪族、今日でいう県の部長クラスというのであれば、なぜ彼の名前だけが特筆されるのか意味が分からない。(この項続く)

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2009/06/30

長塚節「土」

時は明治時代、場所はわが家から利根川をはさんで反対側の茨城県南部。小作人の親子が貧困、病気、災害に苛まれながら、日々の生活を送っていく物語。作者である長塚節(ながつか たかし)は地主でいわゆる高等遊民であり、長塚家に小作料を納める人達をモデルに書いた作品であるといわれている。

文庫版のあとがきに書かれているとおり、冒頭の文章「烈(はげ)しい西風が、・・・痩(やせ)こけた落葉木の林を一日中苛め通した」が、この小説のテーマであり内容のすべてではないかと思う。

体調が悪いにもかかわらず行商に出た小作人の妻が、ようやく夜になってわが家に帰り、隣の家に「もらい湯」に行く。風呂に入っている間は温かいが、しまい湯に入った娘を待っている間に再び体は冷え切ってしまう、というのが最初のエピソード。亭主はというと、小作だけでは食べていけないので、利根川の工事現場に日雇いに行っているのである。

その日雇いも、天気が悪くて工事休みが多く、米代と薪代だけが取られてしまう。節約しようと工事現場までは歩いて(!)行くのだけれど、常総あたりから利根川べりまで、1日では難しい距離である。いまでもそうなのだが、利根川をはさんで茨城県と千葉県では気候風土や雰囲気が違う。それは、成田空港に関わる公共事業支出だけの問題ではないような気がする。

女房の具合が悪くなり、亭主は工事現場から汽車で帰ってくる。節約して残した米とわずかな魚が女房にとっての滋養なのである。亭主の稼ぎのほとんどは女房の薬代でなくなってしまうが、破傷風の女房は助からない。以下、これでもかこれでもかというくらい、不幸が不幸を呼ぶ、暗くて重い話である。

ただし、その不幸の中には自ら招いたものもあり(盗み癖とか)、貧乏人同士の足の引っ張り合いもある。現代の見方では不幸でも、もしかすると彼ら自身にとっては普通のことなのかもしれない。とはいえ読んでいるうちに、毎日おいしいご飯が食べられること、清潔で健康な生活を送れることが、きわめて幸運であるということが実感できるのであった。

これが、朝日新聞に連載されていたというのだから驚く(明治43年、1910年)。読者にとってかなり気が滅入る連載であったと思われるが、逆にこういう小説だからこそ100年経った今日まで読み継がれているということであろう。渡辺淳一の人気連載小説が、1世紀後の読者に読まれているとは限らないのである。

ところでこの小説、最後まで明るい展望が開けないまま結末を迎えるのであるが、個人的に、この小説の続編に位置づけたいと思っている作品がある。それは同じ常総を舞台とする「下妻物語」である。明治時代に小作の人達がつらい日々を送ったからこそ、平成の時代に深キョンが、原宿までロリータファッションを探しに行くことができたのかと思うと、ちょっとだけ救われるのである。

p.s. いよいよハードスケジュールも大詰め。今日は九州日帰り、明日から北陸1泊2日の出張です。次の更新は金曜日の予定です。

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2009/06/29

マイケル・ジャクソン逝去 ~ビルボードの時代

先週末、マイケル・ジャクソンが逝去した。スリラーが流行ったのはちょうど結婚した1984年頃で、ベータマックスのビデオを当時8000円以上出して買ったものである。いま思えば、”Billy Jean”でムーンウォーク(後ろに進むやつ)をしたり、”Thriller”でゾンビと踊ったりした頃が彼のピークだったことになるが、それ以上に印象に残るのは1970年のことである。

1970年、大阪で万博が開かれた年であった。その頃の私は、暇さえあればFENやラジオ関東でビルボードのヒットチャートを聞いていた。ご存知のとおり、ビルボードは米国の音楽ランキングで、主にレコード売上と、ジュークボックスの再生回数で週ごとにランキングを決めていた(だから、ライバル会社の名前はCashboxなのである)。

1970年1月のビルボード・シングルチャートのトップはB.J.トーマスの”Rain Drops Keep Fallin’ On My Head”、映画「明日に向かって撃て」の主題歌である。この曲をはじめとして、40年近く経った現在でも、割とよく聞かれる曲がトップになったのが1970年なのである。

例えば、この年解散したビートルズが最後のアルバムからシングルカットした”Let It Be”、”The Long And Winding Road”が相次いでトップに立ったのが確か4~5月。サイモン&ガーファンクル(今年も日本に来るが)の最大のヒット”Bridge Over Troubled Water”が4週連続トップだったのが6月くらいだったと思う。

夏には、カーペンターズの”Close To You”が連続してトップ。他にもショッキング・フルーの”Venus”、ダイアナ・ロスの”Ain’t No Mountain High Enough”、ブレッドの”If”など、この年のビルボード1位でいまだにときどき耳にするという曲は結構多い。

Jackson 5がブレークしたのも、1970年である。春には”ABC”(平井堅がKen’s Barでときどき歌う)、秋には”I’ll Be There”がそれぞれビルボードでトップに立っている。当時はOsmond Brothers(こちらはTV番組出身の白人兄弟グループ)がライバルとされたものだけれど、何年も経たない間に完全に差がついた。

マイケル・ジャクソンというとジャンソン・ファイブの時代を思い出すし、ジャクソン・ファイブというと1970年を思い出す。まだ中学生の頃で、将来自分はどんな大物になるんだろうと思っていたら(笑)、50を越えて仕事と住宅ローンに追われるおじさんになってしまった。

ちなみに、つい先月、キャロル・キングの”Tapestry”を久々に聞きたくなってCDを買ったのだけれど、このアルバムがぶっちぎりでアルバム・チャートのトップを独走したのが翌1971年のことでありました。

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