実効支配(2) ~常識で考える日本古代史2
前回のあらすじ
古代日本において、大和朝廷による統一政権の成立は遅くとも5~6世紀という早い時期に想定されているが、常識的に考えると、それより遅い時代まで各勢力による実効支配が続いていたのではなかろうか。
実効支配というと思い浮かぶのは、1980年代のカンボジアにおいてクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の実効支配が続いていたとか、つい先頃までアフガニスタンにおいてタリバンの実効支配が続いていたとか、非合法の正統でない政権による支配というイメージがある。しかし実効支配している側からすると、逆に自分達が正しいと思っていることは十分にありうるというか、むしろそう思っている場合が多いことは想像できる。
現代だから、国連があったり、民主主義的な先進諸国が認めた政権かどうかという判断基準があるが、古代においてそんなものはない。あえて近いものを探せば、地上で唯一の権威と自らを定義している中国(中華王朝)があるのだが、テレビも新聞もない、基本的に伝言ゲームでしか情報が伝達できない昔に、そんな知識が広く知られていたとは考えにくい。その意味では、実効支配を排除する権威はそもそもなくて、実際に力でその地域を支配している者が正統な支配者という時代が長く続いたはずである。
その意味で、クマや狼、鮎や鮭と同じように、人間も「ここからここまでは俺のなわばり」と主張してそれを力づくで確保していくというのがスタートであったことは確かだし、それが最終的に「国」(つまり日本)としてまとまっていったであろうことは流れとして理解できるのだが、その中間点というか境目として、何をもって「統一された政権」と定義されるのであろうか。そのことを考えるうえで、世界史上最大の領土を獲得したモンゴルのケースを考えてみたい。
モンゴル(モンゴル・ウルス)は、13世紀の初頭、チンギス・ハーンがモンゴル民族を統一し大ハーンとなって以降、積極的な領土拡大を図った。日本では、「源義経=ジンギスカン説」がまことしやかに語られた時代があったが、頼朝の鎌倉幕府がご存じのとおり1192年、チンギス・ハーンのモンゴル統一が1206年とされるから、少なくとも時代としては合っている(義経が何語を話してモンゴルで意思疎通したのかと考えると謎であるが)。
モンゴルが諸外国を征服できた戦力的な理由は、攻撃力が極めて高かったということである。1人の兵士が4~5頭以上の馬をかわるがわる使うという機動力、弓矢や槍、投石機や火器(鉄砲はまだないが、爆弾のような火器はあった)といった武器により、彼らは敵の守備網を易々と突破し、まず武力で占領下においた。
次のステップとして、中核部隊が占領下において財(宝物)や労働力(市民を奴隷や兵士として徴用するなど)の略奪を行う。チンギス・ハーンは最初の段階において機動力や攻撃力が減少するのを防ぐため、攻撃部隊には略奪を許さず、中核部隊がそれを行い、奪った獲物は公平に分配するシステムをとったといわれている。
そして最終ステップとして、徴税人を置いて、それ以降の収穫や労働力を搾取しうるシステムを作りあげる。当時モンゴルの占領下におかれた東ヨーロッパ諸国ではこの時代のことを「タタールのくびき」と呼んだ。タタールというのはモンゴル人のこと(いわば蔑称)で、くびきというのは牛や馬が荷車を引く時、首に結わえ付けられる横棒のことである。モンゴル野郎のために、家畜のように働かされる、というニュアンスの言葉である。
しかし、モンゴル国内ならばまだしも、このような領土拡張が現在の中国、ロシア、インド、中央アジア、イラン、イラクにまたがる極めて広範囲においてなぜ可能だったのだろうか。ここで注目すべきなのは、モンゴルだからこそ可能であった高速運輸通信網と、職住接近による行軍である。(この項続く)
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