魏志倭人伝(8) ~常識で考える日本古代史25
2.2 邪馬台国の地勢(さらに続き)
前回のあらすじ
里程(距離)と移動時間を述べている部分はそれぞれ根拠が違い、「水行」「陸行」は伝聞による記述ではないかと考えられる。倭人伝の他の部分で同様の書き方をしているのは、裸国・黒歯国に関する部分である。
邪馬台国に来た魏の使節団が、そこから1年かかるという裸国・黒歯国に実際に行ったとは考えられない。では、この記事の根拠は何だったのかというと、おそらくこういった会話だったと考えられる。
魏人「他にどんな国があるのか」
倭人「南に裸国と黒歯国がある」
魏人「そこまで、どのくらいの距離があるのか」
倭人「舟で1年かかる」
後の時代の正史である隋書に、こういう記事がある。
夷人不知里数、但計以日。夷人(この場合倭人)は里で数えることを知らず、日で数えることしかできない。
つまり、倭人だけしか行ったことがない場所の距離は、「何里」という表現ができないので、何日(あるいは何月、何年)ということしか書けない。だから、「水行(海行)」「陸行」というのは、本当なら何里と書きたいのだけれど、伝聞しかできないのでやむなくそう表現するしかなかったと考えられる。
それでは、何の距離なのか。裸国・黒歯国の場合は「そこまで到達するのでの距離」であることは明らかである。投馬国や邪馬台国もそうなのかというと、そこまでの各国ではそういう書き方をしていない。例えば「東南陸行五百里、到伊都国」のように、どれだけ行くとどこそこに着くという書き方をしている。だから距離ならば、「南水行二十日、至投馬国」と書いてある方が文脈的に自然である。
その点、伊都国以降の奴国・不弥国もそういう書き方をしているのが余計あいまいさを増している。個人的にはそれらの距離記載も「もともと原資料になかったものを、他の出典により書き足したもの」という共通点があると考えているが、投馬国や邪馬台国が距離だとすると、「邪馬台国以北の距離は分かる」と矛盾する。だから私は、この記載は「国の広さを示すもの」ではないかと考えている。
つまり、韓ならば「方四千里」、対馬国・一大国ならば「方四百里」「方三百里」とその広さが記載されているが、九州という島について全く広さに類する記載がない。おそらく、魏の使者は九州を一周できなかったのではないか。だから、現地人にそれを聞こうとした。しかし、現地人は「不知里数(里で数えることができない)」、だから、「この国は、歩いて十日かかる」「舟で回ると一月かかる」と言ったのではないか。
このことについては、次の章で倭国の人口を検討する際に再度検討するが、投馬国と邪馬台国は東夷の国々の中ではかなり規模が大きく、国土の広さを示さないと記事として不完全であるという見方もできる。もちろん、これも一つの仮説であるが、そう考えることによって「魏志倭人伝は間違い」という前提を置かなくても、一連の記事が理解できるのである。
ちなみに、三国時代の後、晋の中国統一は短期間で終了し、その後の統一政権は7世紀の隋・唐を待たなくてはならない。その間、倭国に使節を派遣するほどの国力のある統一政権は現れず、それらの正史の中には「水行」「陸行」を邪馬台国までの距離と理解しているものもある。しかし、倭についての最後の記載となる「隋書」並びに「旧唐書(くとうじょ)」では、邪馬台国まで一万二千里の記載の方を生かしていることからみて、いずれにせよ「水行」「陸行」は別の根拠に基づく数字とみるべきである。(この項続く)
p.s.「常識で考える日本古代史」のバックナンバーはこちら。
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