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2008/03/31

99点で決勝へ ~ポーカーの奥深い世界58

先週末はWPJ5(世界選手権ポーカー日本代表決定戦)最終戦の6maxであった。この日は湯河原でストラドル杯もあるのだが、成田空港の近くから湯河原まで行くのは辛いので、いつもどおり上野ルームへ。電車からみる満開の桜が見事である。乗り換えの浅草駅も、隅田川で花見をする人が多いためか混雑していた。

昨年のWPJ4は、年間で77点集めて決勝戦に臨んだ。今年は10月に早くも決勝進出の60点をクリアしたのだが、その後急激に伸び悩んで3月のJUMPSを終わって99点、なんとも中途半端な数字である。ぜひとも3桁にして4月第2週の決勝を迎えたいところである。

ただし、そのJUMPS(リミットホールデム)の負け方はあまり良くなかった。1ヵ月ぶりに来たAAを、95にまくられたのが致命傷となったのである。確かに、リミットの場合レイズしても付いてこられてしまうので、ノーリミットに比べてAAは強くない。それでも、95にやられるというのはショックである。フロップ9がトップペアで、リバー5が出てツーペアになったので、相手も下りようにも下りられないシチュエーションだったのも確かだけれど。

さて、この日の6max(リミットホールデム)である。前半のリバイラウンド、開始早々にA+ハイカードが続けて入るが、ボードにAが落ちず。その後ぱったりと手が入らなくなる。まあ、リミットだからコネクトやらスーツ、ハイカード2枚でぼちぼち参加する。一度KJがフルになったが、後は大した手が上がれず最後はオールインを負けて、結局4リバイ+4アドオンで後半へ。リバイのなくなるここからが勝負である。

ブラインドは400-800、持ち点は12000点からの再スタートとなる。しばらくして44が到着。普段なら参加しない手だが、負けている時は仕掛けなければならない。レイズが入っていたけれどコールで参加。フロップ567、ターンでと出てストレート完成。これで勝負をかけられるチップ量になった。

そのすぐ後、ブラインド600-1200でAA到着。レイズが入っていたのでリレイズで相手を減らそうとする。が、誰も下りない。6maxなのにプリフロで4人残り、すでにポットは15000点近く。フロップ753。まさか64で参加している奴もいないだろうし、77ポケットでもどうかというところ。しかしベットしてもみんなついてくる。

ターン。うーん、QQだったらいるかもしれないなあと思いつつ、レイズしてとうとうポットは30000点を超える。そしてここで一人オールインとなり、リバーragでそのまま。相手がセットなら仕方ないとあきらめてオープンすると、なんと下家のハンドは75のツーペアである。2週続けて、同じような手にAAをまくられてしまった。

結局このダメージが大きく、次のブラインド1000-2000で自然死状態となってしまったのだけれど、これで3月は、1回もAAでポットを取れないというひどい月になってしまった。こんなことなら、AAなんか来なくていいよ、と思いつつ、それでも決勝戦は昨年の二の舞とならないようがんばりたいと思ったりする。とにかく、昨年より20点以上多いのである。

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2008/03/28

魏志倭人伝(19) ~常識で考える日本古代史36

2.5 倭人は何を食べていたか

前回のあらすじ
氷河期が終わった約1万年前、縄文人のもととなる人々は南方から日本列島に入ったものと考えられる。その頃の人々は狩猟・採集により得られた食料で暮らしていたが、それまでの熱帯とは異なり四季のある温帯においては、食料の乏しくなる冬のために保存食を確保しておく必要があった。

さて、ここで人々が食料をどのように調理していたかを考えてみたい。

主なカロリー源でありたんぱく源である魚や肉は、新鮮なものであれば生でそのまま、日が経っていれば焼いて食べたであろう。特に魚の場合は、熱を加えてしまうとビタミン類が失われてしまうので、体調を整える上でも生で食べることが望ましい。

一方で、保存したりあるいは他の物と交換する場合には、いまのように冷蔵庫や保冷車がないので、魚なら干物に、肉なら干し肉にしたものと考えられる。海の水と日差しがあれば干物や干し肉を作ることができるし、火の上に吊るしておけば燻製にすることもできる。いまでもそうやって簡単にベーコンを作ることができるが、塩だけでもかなりおいしい。

一方、その頃にはまだ金属器がないので、水を入れておくことのできる容器は、木を削って作るか、貝殻の大きなものを使うか、あるいは土器しかない。土器については、縄文式だけでなく弥生式土器、さらに後の時代の土師器(はじき)に至るまで、粘土を固めて比較的低い温度で焼かれており、表面処理もほとんどされていないのである。

現代の土鍋も土器の一種であるが、土鍋がなぜ金属鍋と同じように調理に使えるのかというと、窯(かま)に入れて高温で焼いていることにより耐久性があることと、釉(うわぐすり)を塗っていることにより、土の成分が溶け出してこないからである。そうした土器が日本で作られたのは、古墳時代の須恵器(すえき)以降と考えられている。

逆に言うと、縄文式土器を調理に使おうとすると、直火に当てれば割れやすいし、煮ているうちに土の成分が溶け出してきてしまうということである。もちろん、当時の人々は今ほど神経質ではない。現代でも、インドの人々はガンジス川の泥水(われわれからみると)で顔を洗ったり口をゆすいだりしているそうであり、土器に汲み置きした水を飲んだりするくらいのことは平気だったに違いない。

しかし、例えばいまのようなやり方でご飯を炊く場合、土が溶け出してしまえばご飯は土の味になってしまうので、そうやって食べてもあまりおいしそうでない。そして実際も、コメは蒸して食べていたらしい。例えば火のそばに水を入れた土器を置き、竹や草で編んだザルにコメを入れて蒸し、柔らかくなったところを食べたようなのである。

つまり、金属器が普及する以前には、生、焼く、蒸すの3つの調理が多かったのではないだろうか。もちろん、「茹でる」ことにより食べやすくなったり、保存がしやすくなるという効果があるので(例えば、卵・固い肉・ドングリの渋抜きなど)、そういう下ごしらえ的な調理はあったと思われるが、現代のスープやシチューを縄文式土器で作ることは難しかったと考えるのである。

こうした状況の中で、稲作がどのように広まり、そして日本の基幹産業となったのかというのが次の問題である。(この項続く)

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2008/03/27

春の特別連載 ~マダムYの素敵な青春(第1回)

注.しつこいようですが、この物語はふぃくしょんです。登場する人物・団体等はすべて架空のものです。

苦しくて仕方がない。いくら息を吸っても二酸化炭素ばかりが入ってきて、酸素がちっとも肺に届かない。水の中でもないのに、空気の層は頭の数十センチ上にある。マダムYは身長が140と少ししかないので、満員電車に乗ると人の海の中に沈んでしまうのだ。

京浜東北線はいつでも満員で、埼玉県から東京の会社に通うマダムYは毎日人にもみくちゃにされながら通勤していた。押されるのは痛いし、周りに背の高い人が来ると空気が薄くなるし、おまけにときどき勝手にひとの体をさわる不届き者までいた。息が続かず、途中の駅で下りてしまうこともよくあった。

もう限界だ、下りなくちゃと足を前に進めようとしたら、堅いものにぶつかったような音がして足が痛くなった。あれっ、と思うと、布団を下方向に水平移動して、かけぶとんで顔をぐるぐる巻きにしながら、壁を足で蹴っている自分に気がついた。マダムYは極めて寝相が悪いのである。

なんだ、夢だったのか。

マダムYが専業主婦になって、早くも25年が経とうとしている。25年といえば、100年の4分の1である。子供の小さい頃はそれなりに大変だったけれど、最近では毎日のんびりとお庭の手入れをしたりして過ごせることを、マダムYはうれしく思っている。そういえば、いまは娘が東京まで通勤しているんだからなあ。

マダムYは高校を出てすぐ、就職した。進路指導の先生が、「M銀行とS銀行、どっちにしますか?」と聞くので、どっちがどういうところかよく分からないので最初に言われた方のM銀行にしたのである。実はその2つの銀行は後に合併していまでは1つの銀行になってしまったのであるが。

当時、銀行の女子の求人は、高卒が大部分だった。なぜかというと女の子のほとんどは24歳までに結婚して退職してしまうので、22、3で大卒を入れても、仕事を覚えた頃になると辞めてしまうからである。

そして、当時の銀行の採用基準の一つとして、「未婚の女子行員は自宅通勤であること」というのがあった。だから、首都圏のはしくれである埼玉の女子高生であるマダムYにとって、1つの銀行当たり数百人、地方銀行や信用金庫まで含めた業界全体ではおそらく数万人にのぼる銀行への就職というのは、かなりありふれたものであった。

ただ、マダムYはいまも昔も世間知らずである。マダムYにとって銀行は、9時に開いて3時に閉まるヒマな仕事というイメージだったのである。おまけに近くの金融機関である農協は、おじいさんやおばあさんが用もないのに集まってきてお茶を飲んだり、たまにサービスでバス旅行に行ったりするところだったので、新人はお茶くみが仕事なのだろうとマダムYは思っていたのである。

しかし、現実はもちろん、そんなに甘いものではなかったのであった。(次回に続く)

p.s. マダムYシリーズのバックナンバーはこちらへ。

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2008/03/26

黒字になるはずがない新銀行東京(続き)

昨日は、銀行や信用金庫が貸さないような取引先に無担保で貸すのだから、新銀行東京に多額の貸倒損失が出ないはずがないと書いた。今日はもう一つの要素として、銀行という商売がそもそも今の時代では採算に合わないという話である。いくら貸し倒れてもそれ以上に儲けが出れば収支は黒字になるのだが、今日ではそれは無理なのである。

昔は銀行というと年に何回かは取引先を招待してゴルフ大会を行っていたし、信用金庫や農協でも預金者を連れてバス旅行などをするところが珍しくなかった。どうして今は銀行がもうからなくなってしまったのか、その原因は貸出金利にある。

いくらきれいごとを言っても、銀行の基本は金貸しである。お客さまから集めた預金を取引先企業に貸し出すことによって、その利ざやを収入源としている。そしてその金利は、基本的に公定歩合にせいぜい上乗せ1%程度で、昔と今とでそれほど大きくは変わらない。例外は個人に対するカードローンなどで、これは昔から10%以上の金利で貸し出している。

さて、預金金利も公定歩合にしたがって上下し、こちらはほぼ1%公定歩合を下回るので、預かったおカネを貸し出すことで銀行は2%前後の利ざやを得る(例えば東京三菱UFJ銀行の場合、68.2兆円の貸出金に対し約8,400億円の利ざや収益)。さて、その収益で果たして採算に乗るのか考えてみよう。

まず第一に、2%の利ざやということは、貸出金の2%が貸し倒れてしまうと収益が吹っ飛んでしまうということである。昨日書いたように、東京信用保証協会の貸倒れ率は2%である。信用保証協会や新銀行東京並みの取引先しか持っていなければ、どんな大銀行でも採算は取れないということになる(そもそも昔は、2%の貸倒れなど発生しなかった)。

そして、銀行を維持するためには、収益の中から経費をまかなわなければならない。その経費とは、銀行員のお給料(人件費)であり、一等地に支店を配置するための家賃や建物維持費用であり、手形交換や振込、公共料金支払、キャッシュカード入出金等々のサービスを提供するためのシステム経費であり、銀行として営業していることを周知するための広告宣伝費などさまざまの経費である。

既存の銀行は、それらのうちかなりの部分を過去の蓄積として持っている。だからなんとか黒字決算となり株主に配当することができるけれども、新銀行東京はゼロから始めようとしたものだからそこから構築する必要があった。そうした経費が必要であることを考えれば、貸倒れがこれほど多くならなかったとしても少なくとも10年くらいは黒字になることは考えられなかった

そして、既存の銀行が過去の蓄積をどのようにして積み上げてきたのかというと、実はそこに秘密がある。昔は銀行からおカネを借りると、その一部を預金として置いておかなければならないという暗黙のルールがあったのである。これを歩積・両建(ぶずみ・りょうだて)という。

例えば5000万円が必要な企業があるとする。この企業は銀行から例えば1億円を借りて、5000万円を預金として置いておかなければならなかった。つまり、必要なおカネよりもたくさんの金利を払わなければならなかったのである。こうした裏技により、銀行は収益を確保していた。その一部をコンペ費用とか預金者サービスに振り分けることもできたのである。

そうした裏技が使えなくなった経緯もいろいろあるのだがそれは置くとして、ここで言いたいのは、ゼロからスタートする銀行がすべての経費をまかなって黒字になることは、いまの時代考えられないということである。その意味では私鉄と似ているかもしれない。これらの業態は過去の蓄積によって、なんとか生き延びることができているのであった。

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2008/03/25

黒字になるはずがない新銀行東京

首都圏以外ではどの程度報道されているかよく分からないが、新銀行東京が大騒ぎである。現時点で累積赤字が1000億円を超え、とりあえず緊急支援として400億円が必要ということで、東京都としてはこのまま支援を続けるか、それともこの際つぶしてしまった方がいいのか、という話である。

このことについて驚くのは、どうやら東京都と石原都知事は、新銀行東京がちゃんと軌道に乗ると本気で考えていたらしいということである。何人かの識者が述べているように、この銀行が都の支援なしで独り立ちできる可能性は最初からほとんどゼロだったのだから、この事態を想定してなんらかの準備をしていないというのは信じがたいことである。

私自身社会人生活の最初1/3は銀行員として過ごしたので、新銀行東京の経営が立ち行かないことについてある程度の「土地勘」はある。そこで、なぜそう断言できるのかについて述べてみることにしたい。

なお、新銀行の構想そのものは石原都知事の再選時の公約であり、このこと自体ある筋からの強力なプッシュによることは明らかである。が、このことをあまり突っつくと日本の暗部(村上春樹いうところの地下のみみずくん)を刺激することになるので、ここではあえて触れずに、ビジネスプランそのものについての議論にとどめる。

新銀行東京のコンセプトは、銀行や信用金庫など既存の金融機関で十分にそのニーズに応えることのできない中小企業に対して、基本的に無担保で資金を貸し出していこうというものである。「ニーズにこたえることのできない」というのはつまり、銀行や信用金庫が貸してくれないということである。

銀行や信用金庫がその企業の信用力をどのように判断するかというと、業績(もうかっているか)や業歴(どのくらい長くやっているか)、経営者の資産(金持ちかどうか)などを中心に審査する。銀行にとって貸し倒れは最も恐ろしいものだから、それを避けるために最大限の努力をする。

したがって、中小企業のほとんどはまず制度金融(国民生活金融公庫など)から取引を始め、次に信用保証協会の保証付の融資、次に一部上場企業の手形割引と進んでようやく不動産担保の長期貸付となり、無担保融資はそうした実績を積んでからようやくというのが昔の銀行取引であった。

さて、新銀行東京が取引先としたのはそういうレールに乗ることのできない、信用力の低い企業がほとんどであった。ご存知のようにちゃんと担保をとっていた銀行も、バブル崩壊(地価の下落)により大きなダメージを受けた。担保をとらないで信用力の低い企業に貸し込んだらどうなるか。

同じような取引先について、銀行に対する保証人となっている信用保証協会という団体がある。東京都に住所を持つ企業については、東京信用保証協会である(大阪の場合、大阪府と大阪市がそれぞれ信用保証協会を持っている)。ここは財務状況をディスクローズしている。

ここのホームページをみてみると、平成18年度の場合、約4兆2千億円の保証残高(銀行にとっては貸出残高)に対して、代位返済額(延滞・倒産のため銀行に対して代わりに支払った額)が約840億円である。東京都内、かつ信用保証協会だけで、年間800億円以上が貸し倒れているということである。これが平成14年度には年間2500億円あった。

減少分のうち新銀行東京に行った部分がかなりあるとみることもできるが、ここで重要なのは、信用力の低い中小企業に貸すということは必ず貸し倒れのリスクを伴うということである。そして、信用保証協会にしても、国民生活金融公庫にしても、その赤字は結局のところ税金で穴埋めされる。

新銀行東京も同じことをやろうとする以上、同じように毎年貸し倒れによる赤字が出るはずだし、それを穴埋めするための東京都の支援はランニングコストとして毎年必ず発生する。それを見込んでも必要だから新銀行を作ったのかと思っていたのだが、黒字になると思っていたようなのだからどういう頭の構造をしているのか理解に苦しむのである。(この項続く)

p.s.本日(25日)午後3時以降、niftyのメンテナンスのため更新・コメントの入力ができません。次の更新は明日(26日)の午後になります。

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2008/03/24

亀田兄再起戦はそこそこ評価できるのでは

フライ級ノンタイトル10回戦(3/22、幕張メッセ)
亀田興毅(いちおう協栄) ○ 判定(3-0) × レクソン・フローレス(フィリピン)

亀田兄にとって、弟の世界戦で「ヒジ入れろ」の指示でJBCから厳重注意を受けて以来の再起戦。相手はライトフライ級の世界ランカー、フィリピンのフローレス。

このフローレスは一昨年、オマール・ナルバエス(アルゼンチン)の持つWBOのフライ級タイトルに挑戦した実績がある(判定負け)。ナルバエスはおそらく、内藤、坂田と互角以上のチャンピオンであり、ナルバエスと12R戦ったということは、それほど楽な相手ではない。そういう相手を迎えてのワンサイドの判定勝ち(私の採点では99-90)は、まずまず評価できるものといえる。

この試合、フローレスがちゃんと調整してくればKOはないだろうと思っていた。実際、1Rのダウンはややプッシング気味だとしても、各ラウンド確実にクリーンヒットを積み重ねた亀田兄はブランク明けにしては上出来だったと思う。世界ランカー相手にこれだけ一方的な試合のできる軽量級ボクサーは、残念ながら日本にはほとんどいないのである。

にもかかわらず試合後のコメントは、「倒せなかったのは出来が悪かった」ということであるらしい。やっぱりちゃんとした指導者がいないというのはこういうことなのだなあと思う。

「亀田とKOはセット」だといくら威張ったところで、フライ級程度の体格ではパンチ自体にそうそう破壊力があるはずがない。このくらいのクラスで次々とKOを続ける選手がいるとすれば、それは力関係に差があるということに過ぎず、現にローマン・ゴンザレス(ミニマム級、16連続KO)にせよ、アレクサンデル・ムニョス(Sフライ級、23連続KO)にせよ、そこそこの相手と当たった途端に判定勝負が多くなった。

そして、この試合自体は評価できるけれども、その半面彼の課題だったのは、左でパンチを打とうとするあまり体が相手と正対してしまうということで、それを改善しない限りこの階級で世界は難しい。

正対するとなぜいけないかというと、まず攻撃面ではパンチの効果が著しく減少するということである。野球で考えると分かりやすいと思う。バントの構えで投手に正対すればバットには当てやすいがホームランは無理である。右を前にした体制から腰と肩で弾みをつけるから、利き腕の左ストレートの破壊力が増すのである。

またディフェンス面でいうと、相手に体の正面を向けていれば打たれる場所が多くなるのは明白である。サウスポーの選手はオーソドックスの選手からみるとパンチが届く場所が限られるのがメリットなのに、体の正面を向けていればそのメリットがなくなる。ああいうスタイルでやりたいのなら、むしろ左を前にしてオーソドックスで戦う方がいいくらいだ。

実際、数は多くなかったもののフローレスの右ストレートもたびたびクリーンヒットしていたし、4Rのクリンチから離れる一瞬の右フックは、ダウンさせられてもおかしくない一発であった(興毅はアゴが弱点)。こういう一撃を不用意にもらわないためには、ちゃんとヒット・アンド・アウェイ(打って離れる)を繰り返し、無理に倒そうとしないことが必要である。

マスコミの論調ではえてして弟と一緒にされてしまう興毅だが、弟とは大違いで素質は間違いなく一級品である。本当に今からでも遅くないので、ちゃんとしたトレーナーについてほしいものである。ちなみに現時点でWBCチャンプの内藤とやった場合、興毅のパンチは当たらず内藤のパンチが面白いように決まって内藤KO勝ちとなる可能性がかなり大きい。年末に想定される内藤戦までに勝負になるくらいにはレベルアップしてくれないとおもしろくない。

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2008/03/21

魏志倭人伝(18) ~常識で考える日本古代史35

3.5 倭人は何を食べていたか

前回のあらすじ
魏志倭人伝には、倭では冬でも生菜を食べていたとある。当時からあった野菜類としては、セリ、カブ、大根やうり、きのこ・たけのこなどが考えられるが、これだけではカロリー源・たんぱく源として不足である。

日本列島に南方からヒトが移住してきたのは約1万年前とされている。この頃、地球規模では最後の氷河期が終わり、ヒトが生活することのできる地域が北に拡大した。最初に日本列島に来た人々も、この頃黒潮に乗って北上してきたものと考えられる。

さて、その時代ヒトの食料の大部分は、狩猟・採集によって得られていた。社会学の言葉では「狩猟採集社会」といわれる。具体的には、狩りで得た動物、漁で手に入れた魚や貝類、木の実、果物、イモ・球根など採集で得た食物をとることにより、ヒトは生きてきたのである。

その時代の日本列島に移住してきた人々が、後に「縄文人」と呼ばれることになる。縄文人はもともと海の近くに住んでいた人々であり、その食べ物の多くは海から得られたものであった。海岸で採ることのできる貝や海草、カニやエビ、小魚は重要でありかつ安定的に得られる食料であったし、ときには釣ったりモリで突いたりして比較的大きな魚も獲ることができただろう。

ちょうど、よゐこの濱口が「黄金伝説」でやっているような生活である。だから、倭人伝にあるように、倭人は皆、海中の危険な動物を避けるためのまじないとしていれずみをしていたのである。とはいえ、黄金伝説でもときどきみられるように、いくらがんばっても何も獲れない時もあるし、天気が悪かったり風が強かったりすればそもそも漁に出ることができない。そういう時にどうやって日々を暮らしていたのだろう。

彼らがもともと住んでいた熱帯であれば、陸の上で得られるさまざまの食料、例えば果物やヤシなどの木の実を食べることができるし、小動物を狩ることも可能であったろう。しかし、生活圏が北に拡大することによって、彼らには四季という新たな制約条件が加わった。温帯の地域では冬に果物や木の実を得ることは難しく、また動物の姿も少なくなるのである。

だから彼らは、食料の貯蔵をしなければならなかった。食料の不足する冬を生き延びるために、秋の間に「食べる量以上に食料を収穫し保存する」ことが必要だったのである。そして、日本列島にはそれに適した食物があった。栗やクヌギ、シイ、トチといった木々は古い時代から日本には自生していたので、栗やドングリを収穫し、貯蔵したのであった。

縄文時代の遺跡からはしばしば、「縄文クッキー」が出土する。これは、栗、ドングリ、クルミやアワなどを粉末にしたものを動物の脂やヤマイモで固め、クッキーのようにしたもので、保存食として用いられたものとみられている。(この項続く)

p.s.「常識で考える日本古代史」のバックナンバーはこちらで。

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2008/03/19

江口寿史「ストップ!!ひばりくん」

1981年から少年ジャンプ連載。いつ終わったのかはよく知らない。連載の途中で突如として中断し、そのままフェイドアウトしてしまった未完の作品。しかしながら江口寿史の代表作の一つということになっている。

1970年代後半以降、江口の「すすめ!!パイレーツ」をはじめ、「キン肉マン」、「Dr.スランプ」、「こち亀」(当時は今ほどの人気ではなく、作者名も山止たつひこ~もちろん「がきデカ」山上たつひこのパロディ~だった)などの人気作品により少年マンガ誌トップであった少年ジャンプであるが、少年サンデーに激しく追撃されていた。

今にして思えば、読者の年齢層がこの頃から上がりつつあったことから、いかにも小学生を対象としたそれらの作品より、サンデーの「うる星やつら」(高橋留美子)「タッチ」(あだち充)といった中・高生向けのラブ・コメ的作品の方が好まれたということがあったのかもしれない。

こうした中で「ストップ!!ひばりくん」は、サンデーのラブ・コメ路線へのアンチテーゼとして描かれたという説もある。しかしおそらく現実はそんな高尚なものではなくて、江口がやくざの跡取り息子が女の子として学校に通っているという設定に自分で感心してしまい、連載を始めたものの落ちがみつからなかったのではないだろうか。

お母さんが亡くなって天涯孤独の身となった坂本耕作クンは、大空家に引き取られることとなったのだが、そこは「関東大空組」というヤクザ屋さんだった。母の古い友人という大空いばり氏はそこの組長であるのだが、跡取り息子の大空ひばりはなぜか女生徒として学校に通っており、しかも耕作の同級生というシチュエーションである。

とはいってもひばりは男なので、何回かばれそうになるのだが、そのたびにお姉ちゃんであるつばめちゃん(うり二つである。同じ作者が描いているので当たり前だが)が身体検査の身代わりとかになってくれて、事なきを得ているのでした。

ひばりを女の子だと信じて迫ってくるボクシング部の主将や対抗暴力団の若旦那なども参戦して、さあこれからどう決着させるんだと思ったところで、「白いワニが来たので」休載が続き、結局そのまま連載終了となってしまった。

しかし少年ジャンプ的には全くダメージとならず(主力連載が中途半端に終ってしまったら本当ならブーイングもの)、この作品のすぐ後に始まった「北斗の拳」(83年~)、「DRAGON BALL」(84年~)、「魁!!男塾」(85年~)などの人気作品により、ジャンプは空前絶後の大黄金期を迎えたのであった。

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2008/03/18

マカオ・コロアネ島(完結編)

フランシスコ・ザビエル教会からさらに南へ進む。コロアネ小学校を過ぎて、通りの行き止まり、コロアネ・ビレッジの南端にあるのが譚公廟(たんこうびょう)である。ここには、ウィークデイの昼前だというのに、かなりの人が参詣に訪れていた。

道教の神々の中で、特に沿海部の人々の信仰を集めているのは天后(てんこう・ティンハウ)である。天后は道教の海の女神的存在であり、もともとは海難除けのまじないをしていたとされる媽祖と習合されて今日に至っている。香港の天后廟、マカオの媽閣廟(マコウミュウ・マカオ地名の元と考えられている)いずれもこの神を祀っている寺院である。

そしてもう一つ、道教の海の神様として信仰を集めているのが譚公(たんこう・タムクン)である。旧暦の4月8日には香港でもマカオでも譚公祭が開かれる。この譚公を祀った寺院の中でマカオ最大なのが、コロアネ島の譚公廟なのである。

媽閣廟(マコウミュウ)と同じく、渦巻き型や極太の線香が焚かれて周辺には煙と香が漂い、なぜか大きな石に年号やら何やらが書かれていることも共通である。何人もの人が、熱心にお祈りをささげている。後ろ側は小高い丘になっていて、その先は海になっているはずだ。国境警備の建物が建っていたが、ここには誰もいなかった。

譚公廟から裏通りを通ってもとの方向に戻る途中に、二つの小さな寺院がある。一つは天后古廟、もう一つが観音堂である。天后古廟は最近再建工事が行われたらしく、奉加帳のような石碑に、環宇旅遊(私のよく行くホテルの代理店)が大口の寄付をしたことが記されていた。観音堂は仏教寺院のはずなのだが、当然のように関帝(道教で親交されている三国時代の武将、関羽)の絵がかざられていた。

雑貨店や食料品店、八百屋などが並ぶマーケット街を通っていくと、最初に来た総統前広場に戻る。そのまま北に進んで5分くらい行くと、コロアネ・ビレッジ北端のコロアネ漁港である。

ここは、昔コロアネ島がタイパ島とつながっていなかった頃、マカオ半島までフェリーが往復していた港なのだそうである。現在は漁港として使われているらしく、周りには魚の干物を売っている店が2軒あった。

同じ干物とはいっても、熱海や伊東の匂いとは少し違う。日本だと干物にするのはあじやトビウオ、いわし、さんまといったひかりものが多いが、ここの干物はイカと、新巻鮭くらいの大きさの魚の干物(南なのでスズキかもしれない)が主体である。

いまやマカオといっても、カシノの中にいる限りラスベガスと区別が付かないようになりつつある。こうしたのどかな雰囲気が、少しでも長く残っていてほしいと思う。

Coloane4 コロアネ漁港と碇のモニュメント。右は干物のお店。

p.s.本編HPに他の紀行文もたくさんあります。こちらから、My Favorite Placeへ。

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2008/03/17

最近の典型的な週末 ~せいうち日記18

3月15日土曜日、8時起床。医者の日なので、朝は食べられない。9時前には行って順番待ち。空腹時血糖130、ヘモグロビンA1cが6.5。「うーん、心臓がちょっと大きいかも。」と気になることを言われるが、数値はこんなもんだろう。今回は1週間お酒を飲んでいないので、もう少し良くなっているはずだ。

薬局で薬をもらって帰ったら10時。昨日の残りのカレーと食パンで朝ご飯にした後、車で図書館へ。途中でガソリンスタンドに寄る。リッター147円。満タンにしようと思ったが、35リットルまで入れて止める。

千葉ニュータウンに越してきて9年、図書館に駐車場がちゃんとあるのはありがたいといつも思う。前に住んでいた船橋市では、図書館の駐車場はいつ行っても一杯で、仕方なく有料駐車場を使っていた。図書館を2つ回って、6冊借りる。ついでにTSUTAYAに寄って返却。今週借りた中では「真夜中の弥次さん喜多さん」が面白くて、繰り返し5回見た。「なまか」の西遊記がようやくあったので借りる。

家に戻ると12時を過ぎている。クロワッサン1つとバナナを食べて、駅へ。電車を乗り継いで部室に着くとちょうど2時。この日のスト杯ミニは「デュース・トゥ・セブン」、強い手を作った方が負けというゲームである。がんばったのだが、ファイナルテーブル6着でゲームセット。

5時すぎに終わったので、しださんと隣のラーメン~近くのコーヒーをご一緒して、マカオやテニアンやラスベガスや、ボクシング、ポーカーについてお話しする。「今夜のテーマは相手のレイズへのコールorリレイズです」としゃべってしまい、その瞬間しまったと思う。同じテーブルになったらどーするんだ(実際、残り2テーブルから飛ぶまで同じテーブル)。

6時からはストラドル杯メイン。同じテーブルの人たちと、OPPCの話題などで盛り上がる。Bad Beat Barではtagamanが厨房をやっているという話を聞いて、久しぶりに岡山に行きたいなあと思ったりする。ゲームの方は、開始30分で私のAKレイズに左隣のさとーさんがリレイズオールイン。コールしたらAAが出てきてがっぽり削られる。そのまま1200点まで沈むが、奇跡的に5000点まで戻す(ATvsAKが出たので)。

また沈んで、また浮いてなんてことを繰り返していたら、いつの間にかファイナルまで残ってしまった。最後はBBから64sで何も起こらず8着でゲームセットとなったが、この日は4時間でAA2回、JJ、TT、99が2回、AKが5回くらい、AQとAJが2回ずつ、ATも5回と私にしては異常に手が入ってスリリングな1日であった。

16日、日曜日。6時半には目が覚めてしまう。コーヒーを沸かしたが、牛乳がない。車で近くのセブンイレブンまで。帰ったら奥さんが起きてきた。ほうれん草を炒めて老抽(中国しょうゆ)で味付けし、トーストにチーズとハムを乗せて朝ご飯。

8時からはブログの原稿書き。ついでにボクシングの最新情報をチェックして、競馬のメインレース(フィリーズレビュー、昔の阪神4歳牝馬特別)も買ってしまう。10時前には着替えて隣村のスポーツジムへ。

いつものサーキットトレーニングとジャグジーとマッサージ(チェア)でみっちり3時間。同じ負荷をかけてもしんどい時と楽な時があるが、この日は楽だったのでついついウェイトを上げてしまい、つらい思いをする。家に帰ってお昼ご飯は冷凍のカレーピラフ。中国製ではなく、奥さんが残りご飯でまとめて作ったものである。

2時からはラグビーの日本選手権決勝をTV観戦。ノーサイド後速攻で競馬のメインレースを見る。その後奥さんと夕食の買い物に行き、帰ってから三洋電機優勝のブログ記事を書いてupする。夕食はわが家風しゃぶしゃぶ(牛肉と豚肉両方)。

夕飯の後は「西遊記」のDVDを見て、その後このブログを書いている。最近多いのは、こんな感じの週末である。

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2008/03/16

祝・三洋電機、日本選手権ラグビー初優勝

今日午後行われた日本選手権ラグビー決勝で、三洋電機がサントリーを40-18で破って初めての日本選手権を手にした。まことにめでたい。三洋電機は初めての「日本一」であるが、実はこのタイトル、17年前の平成2年度シーズンにほとんど手にしていたというのは有名な話である。

この時の社会人選手権、レフェリーにロスタイムを5分近く取られてしまった三洋電機は、最後のプレーで神戸製鋼CTBイアン・ウィリアムス(オーストラリア代表)に自陣奥深くからの独走トライを決められて同点、さらに日本代表細川のゴール成功で18-16と逆転、その瞬間ゲームセットとなって神戸製鋼の優勝を許したのである。

ウィリアムスの独走トライを許した瞬間、当時の三洋電機宮地監督の表情がTV中継で映った。くやしいという感情は全くなくて、なんとも悲しげな目と、「やっぱり、やられてもうたか・・・」というような表情が今でも忘れられない。この頃ちょうど、大学と社会人の実力差がつきはじめていて、社会人で優勝すれば日本選手権の学生相手はほぼ問題なかったので、まさにあと一歩で日本一を逸したのである。

それから17年、今年の三洋電機は抜群に強く、トップリーグで初めて13戦全勝を飾りプレイオフであるマイクロソフト杯に進出した。しかしここでサントリーに決勝で敗れ準優勝。そして迎えた日本選手権、準決勝でトヨタに1点差で辛くも逃げ切って決勝に進出し、今日の決勝を迎えたのである。

今シーズンの三洋電機の強さは、なんといってもスタンドオフ、ロニー・ブラウン(元オール・ブラックス)が伝統の突破力にすぐれたフォワードをうまく使っているということだろう。昔から三洋電機はフォワードが強く、いまの宮本監督(神戸製鋼との試合にも出ていたはず)、飯島、ラトゥ(初代)、ラトゥ(二代目)から現役のホラニ、タイオネに至るまで、連綿と引き継がれてきた伝統がある。

そして、ロニー・ブラウンに見習うべき最大の点は「立ってプレーする」ということだと思う。日本のプレイヤーはとにかく球が出ると倒れこんで行き「寝て」プレーしようとする。しかしロニー・ブラウンは立ってプレーするので、オーバー・ザ・トップやオフサイドなどの反則もとられにくいし、ターンオーバーも多い。

こういうプレイヤーが増えていけば、ボールが動くしラグビーを見ていて楽しい。今日のゲームも、ミス絡みでないターンオーバーが多くスリリングであった。秋から始まる来シーズンには、ぜひそういうプレーを各チームが見せてほしいものである。

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2008/03/14

魏志倭人伝(17) ~常識で考える日本古代史34

3.5 倭人は何を食べていたか

学校で習った歴史では、古くは縄文時代から稲作の遺跡は遺されており、弥生時代には大陸・朝鮮半島から伝わった先進文化により大規模な稲作農業が全国的に展開した、とされており、われわれの頭の中にはなんとなくそういう思い込みがある。

しかし、基本的にコメというものは調理しなければ食べられない。コメのでんぷん質はそのままでは消化・吸収がしにくく、水に入れて加熱することによりアルファ化して消化・吸収できるようになる。その意味で、手間のかかる食料なのである。

だから、稲作は「これはいいものだ」ということですぐに取り入れられ普及したというわけではないと思っている。そして、稲作というのは当時の最先端のベンチャーであり、その事業化に成功したことにより古代日本が経済成長を果たしたと考えているのだが、その前段としてまず、古代の日本人は何を食べていたのかについて考察してみたい。

前の節で書いたように、魏志倭人伝には倭国について、「倭は温暖であり、冬でも生菜を食べることができる(倭地温暖、冬夏食生菜)」と書かれている。さて、ここで書かれている生菜とは何なのであろうか。

現代において常備する野菜としてポピュラーであるのは、にんじん、じゃがいも、タマネギではないかと思われるが(カレーやシチュー、肉じゃがが作れる)、にんじん、じゃがいもが日本に伝わったのは16世紀、タマネギに至っては明治時代である。

キャベツやほうれん草も江戸時代以降、トマトは明治時代。かぼちゃはもともと「カンボジア(の瓜)」という意味で、フランシスコ・ザビエルの頃ポルトガル人が持ち込んだ。ナスはかなり古いがそれでも平安時代で、今なじみの野菜のほとんどは縄文~弥生時代には日本には存在しない。

その当時の野菜には、セリ、ネギ、カブ(すずな)、大根(すずしろ)、菜の花などのアブラナ科の葉物、ウリ、ワラビやゼンマイなどの山菜、きのこ・タケノコなどがあったと考えられる。かぶ、大根はもちろん葉も食用になるので、こうした野菜を冬の間に食べていたのかもしれない。

しかし、野菜だけではカロリー源、あるいはたんぱく源として十分でない。つまり、主たる食料はこれ以外にあったはずである。(この項続く)

p.s.常識で考える日本古代史のバックナンバーはこちら

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2008/03/13

WBC世界スーパーフェザー級戦展望

WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチ(3/15、米ラスベガス)
チャンピオン ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ、48勝35KO3敗1引分け) +150
挑戦者 マニー・パッキャオ(フィリピン、45勝35KO3敗2引分け) -180

先週の予想では内藤引分け防衛・ピーターKO勝ちをパーフェクト的中させた当コラム、今週のビッグマッチは2004年5月以来約4年ぶりの再戦となるマルケス兄とパックマンのラスベガス・マンダレイベイ決戦である。

前回の対戦ではパッキャオが1Rに3度のダウンを奪ったものの、試合全般としてはマルケスに分のある引分け。その時と比べると、マルケスは技術的により洗練され、パッキャオは全ラウンド動き続けるスタミナ面が向上したとみている。

オッズが示すように、この試合の注目はパッキャオである。アジア系ボクサーとしては初めてといっていいビッグマネー・ファイターとなったパッキャオであるが、知名度を上げた要素としてはエリック・モラレスとの3戦、マルコ・アントニオ・バレラとの2戦が非常に大きい。あとの対戦相手として一流といえるのはオスカー・ラリオスくらいで、実はそれほど多くの強豪と対戦している訳ではない。

前にも書いたようにパッキャオはフライ級スタートで、5階級上になるスーパーフェザー級は体格的に厳しい。モラレス、バレラ、ラリオスといった面々はもともとスーパーバンタム級の選手であるから、大きなハンディキャップはなかった。しかし、ナチュラルなこのクラスの選手、例えばWBAチャンピオンのエドウィン・バレロと戦ったら、パンチ力、耐久力の点でパッキャオはかなり不利になるだろう。

その意味で、フェザー級からクラスを上げたマルケス兄は、パッキャオにとってぎりぎりの相手と考えられる。そのマルケス兄も、スーパーフェザー級での2試合、タイトルを獲ったバレラ戦、初防衛のフアレス戦がいずれも判定で、攻撃力が相対的に低下している懸念はあるが、相手も強かったので仕方なかったという見方もできる。

テクニック的には、前の試合がそうであったようにマルケス兄が上。あとはパッキャオの一発が決まるかどうかだが、最近のパッキャオは昔のような思い切りに欠けているような気がする。ウェイトを上げると耐久力も増すので、前の試合のようにマルケスをダウンさせるのはちょっと難しいのではないかと思っている。マルケス判定勝ちにブラックチップ。

ちなみに、パッキャオはこの試合の後、6月にマカオで試合を予定しているらしい。

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2008/03/12

マカオ・コロアネ島(続き)

バスターミナルのある総統前広場からさらに直進すると、50メートルも行かない間に海に行き着く。向こう岸に見えるのは、中国・珠海市である。ここから左右(方角でいうと南北)に広がるのが、コロアネ・ビレッジである。ゆっくり歩いても1回り30分もかからない小さな村であるが、なんともいえない雰囲気がある。

そして、家々はあまりきれいとは言えないのに、止まっている車はほとんど新車であるあたり、マカオの好景気の影響が及んでいるということなのだろう。

突き当たりを左(南)に向かう。コロアネ・ビレッジには海岸沿いを南北に通っている大通りと、そこからやや内陸に入ったところを平行に通っている裏通りしかない。だからまず対岸の中国側を見ながら大通りを南下するのだが、総統前広場から4、5分もかからない近くに、有名なフランシスコ・ザビエル教会がある。まっ黄色の目立つ外観をしているので、すぐに分かる。

日本のマカオ観光案内では、必ずといっていいほど載っている教会だが、あまりひと気はない。周辺には観光客目当てと思われる飲食店や土産物店と思われる店(とはいっても、屋台と大して変わらない)が並んでいるが、どこも開いていない。というよりも、しばらく前からやっていないのではないかという雰囲気である。

建物の中に入ってみる。おごそかに教会音楽が流れていて、左右に何列かずつ並んでいるあまり広くはない礼拝室と、もう一つ資料室のような部屋がある。資料室には、アジアにキリスト教が布教されてきた歴史についての展示物があり、英語と中国語の説明が書かれていた。

ご存知のようにフランシスコ・ザビエルは16世紀のカトリックの宣教師で、日本にキリスト教を伝えたことで有名である。もともとはポルトガル王の求めにより当時ポルトガル領であったインド西岸のゴアに派遣されていた。その後、中国そして日本へと布教していったのであるが、日本への出発点となったのが当時やはりポルトガルの拠点であった広州である。

その後マカオがポルトガル領になったことにより、ザビエルの名を冠した教会がこの地に残されることとなったものであろう。とはいえ、マカオの人々にキリスト教が根付いているかというと、どうやらそうではなさそうだ。実はコロアネ・ビレッジには他にもいくつかの宗教施設があるのだが、にぎやかだったのはむしろそちらの方だったのである。(この項続く)

Coloane3

フランシスコ・ザビエル教会。マカオらしいパステルカラーで、建物の中はそれほど広くはない。

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2008/03/11

マカオ・コロアネ島

アジアのラスベガスを目指してマカオ中が建設ラッシュとなり、かつてののどかなマカオはほとんど見ることができない。その中でかつての雰囲気をわずかに残しているのが、コロアネ島である。今回はこの「最後の楽園」とも言うべきコロアネ島にも足を伸ばしてみた。

かつてマカオは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3つの地域に分かれていた。マカオ半島は中国と地続きでポルトガルのアジア進出以来古い歴史を持つ貿易港であり、一方でタイパ島、コロアネ島は文字通り島であった。マカオ半島は狭い地域に多くの建物と人々がひしめいており、カシノの多くが集中していたのに対し、タイパ・コロアネ島はリゾート地として、ホテルやゴルフ場、競馬場、運動場、海岸、植物園などが点在していた。

しかし、1990年代に入り、マカオの中国返還、さらに海外資本へのカシノ自由化が起こることにより、こうした状況は大きく変わってきた。マカオ半島には、再開発できる土地はほとんどない。だからそれ以降に大規模な開発を行うためには、マカオ半島以外の地域に土地を求める他はなくなってしまったのである。

具体的には、タイパ島と、タイパ・コロアネ間の埋立地であるコタイ地区である。タイパ島は住宅地として、コタイ地区は自由化により進出した欧米・香港資本のカシノ&ホテル用地として、大規模な開発が行われてきたし、さらに今後も行われる。そういうことで現在では、タイパ島とコロアネ島はとうとう地続きになってしまった。

それでも、ゴルフ場やサーキットを越えてコロアネ島の中心部へ向かう人はそれほど多くはない。大体、バスだってそれほど本数走っている訳ではないのだ。そう、ここから先がマカオの「最後の楽園」なのである。

サーキットを越えて、左に採石場、右に工業地帯を見ながらしばらく進むと、前にも書いたことがある「媽祖文化村」への入口になる。構わず先に進むと、坂を登って下ったあたりにコロアネ村の中心部が見えてくる。バスターミナルのあるロータリーが「恩尼斯総統前地(エネス総統前広場)」である。マカオ半島中心部からここまでタクシーで来ると、大体70HK$(1000円)くらいになる。(この項続く)

Coloane2 コロアネ島・総統前広場あたり。バスの向こう側がロータリー(広場)となっている。

p.s.本編HPに他の紀行文もたくさんあります。こちらへ。

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2008/03/10

あしべゆうほ「悪魔の花嫁」

「デイモスのはなよめ」と読む。1975年からプリンセス連載。

「がきデカ」で一気に少年マンガ界の主力にのし上がった秋田書店であるが、少女マンガ界では月刊誌プリンセスがなかなか伸びなかった。後に「エロイカ」がブレイクするまでは、この作品や青池保子の前作「イブの息子たち」あたりがメインであった。(ちなみに、「王家の紋章」は私は絵的にキライ)

はるか昔の神話の世界、妹の美の女神ヴィーナスを愛したために、兄のデイモスは悪魔とされ、黒い羽と角を与えられ天上界から追放された。そしてヴィーナスも生きたまま池の底にさかさ吊りにされ、すでに体の半分は腐ってしまっている。

妹を愛するデイモスは、ヴィーナスが人間界に生まれ変わった美奈子(みなこ)を殺して、その肉体をヴィーナスに与えることを思いついた。そして美奈子の前に現われるのだが、魔界に連れて行こうとするたびに何か事件が起こるというストーリーである。

大体は、美奈子に関わりのある何かの欲にとりつかれた人物が破滅していくという物語なのだが、そんなこんなでいつもデイモスの計画は頓挫してしまう。そして、生まれ変わりにもかかわらず、ヴィーナスは「いつまでもこんなところに私を放っておいて」と恨むし、美奈子はもちろん死にたくないから抵抗する。別人格なのである。

こんなストーリーをどうやって収束させるのかなあと思って見ていたが、いつもデイモスは美奈子を連れて行けずに次回へ続くとなる。結局、結末が示されないまま連載終了に至ってしまった。

落ちを考えずに連載をはじめるなといいたいところだが、結末まで行かないまま終わってしまったにもかかわらず名作と言われるのは、この作品あたりから始まった傾向かもしれない。同じような作品があるのだが、その話は次回にでも。

p.s.本編HPに他の少女マンガの書評もたくさんあります。こちらへ。

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2008/03/07

内藤・ポンサク、WBCヘビー級戦展望

WBC世界フライ級タイトルマッチ(3/8、両国国技館)
△チャンピオン 内藤大助(日本、32勝20KO2敗2引分け)
   挑戦者 ポンサクレック・ウォンジョンガム(タイ、67勝35KO3敗)

2001年3月にマルコム・ツニャカオからタイトルを獲ったポンサクも、それから7年が経過した。過去のタイの名王者であるカオサイ・ギャラクシーが7年1ヵ月(WBAスーパーフライ)、ウィラポンが7年3ヵ月(WBCバンタム)の連続防衛だったことからすると、仮にここで再び王者となったとしてもそれほど長くはないと思われる。

ポンサクの体調が万全であれば、内藤のトリッキーな動きに対応してカウンターを入れることができる。また、亀田大毅戦で危惧された内藤の目が切れやすい点についても、パンチであればTKOとなるという本来の意味で問題となるだろう。

逆にポンサクの調子落ちが一過性のものでなく年齢的なものであった場合、内藤は大毅戦と違って「負けたら仕方がない」と思い切って来るはずだから、内藤KO勝ちもありうる。もちろん前回と同様判定勝ちは十分。

実力的には、10対8くらいでポンサクレックに分があるとみるが、日本開催という地の利、ポンサク下り坂、内藤ピークという要因を考え合わせると、内藤KO勝ちからポンサクKO勝ちまでどんな結果となっても想定内。間をとって、引分けと予想してみる。

WBC世界ヘビー級王座統一戦(3/8、メキシコ・カンクン)
   チャンピオン オレグ・マスカエフ(ロシア、34勝26KO5敗) +300
○暫定チャンピオン サミュエル・ピーター(ナイジェリア、29勝22KO1敗) -450

身長はマスカエフが約8cm高く、体重はピーターが約5kg重い。マスカエフは2002年にコーリー・サンダースに負けて以来12連勝、ピーターは2005年ウラディミールに唯一の負けを喫して以来6連勝。WBCの王座統一戦である。

マスカエフの残る4敗が、オリバー・マッコール、デビット・トゥア、カーク・ジョンソン、ランス・ウィテカー。サンダース戦を含め、すべてKO負けである。かたやピーターはウラディミール戦では3度ダウンを奪った末の判定負けであった。

となると、マスカエフのKO負けという結論にどうしても達してしまうが、先々週のウラディミールvsイブラギモフがあまり活気のない試合だったので、ヘビー級らしい迫力ある打ち合いを期待したい。

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2008/03/06

08年春のマカオ(続き)

2月25日朝、前日サンズで負けたためか、それともアフリカンチキンを一人で食べたためか、胃がもたれて仕方がない。いつも海外遠征の際には用意する大正漢方胃腸薬を飲んで、出陣である。

今回のマカオはやけに肌寒かった。天気予報では最高気温19度、最低気温11度、風があってもう少し寒いように感じたくらいで、上着なしではつらい陽気であった。朝一番はフェリーターミナルまで歩き、シャトルバスで昨日に続いてMGMグランドへ。

月曜日の朝のせいか、前日以上にひと気がない。前日と同じくディーラーとサシでバカラ。しかし今回はなかなか浮上できない。とにかくベットアップすると逆の目が出てしまう。ずいぶんと絞ったので負けないうちに引き上げる。午前中はここからコロアネ島に行ってつかの間の観光。これはまた別の機会に書こうと思います。

昼からはコタイのベネチアン・マカオへ。コタイというのはタイパ島とコロアネ島の間の埋立地で、ここがまさに今カシノホテルの建設ラッシュとなっている。工事中のところを歩いて行ったのだが、ラスベガスであればストリップにあたるタイパ・コロアネ大通りは両側とも工事中の塀が立てられてしまっている。

上まで立ち上がっているものだけ数えても、大通りの西側に1棟、東側に3棟。ベネチアンやMGMと同じスピードであれば、おそらく来年前半くらいにはオープンしそうな勢いである。どこがどこだか分からないが、塀に書かれている名前を見ると、サンズとかギャラクシーとか、マリオットとかが建つようだし、日本のオークラ系のホテルもあるらしい。ただでさえ供給過剰気味なのに、これ以上作ってどうするのだろうか、と思わないでもない。

昼食はベネチアンホテルへ。ここにはフードコートがあって、およそ100パタカ(≒100HK$≒1500円)以内で食べることができる。日本のお好み焼きやうどんから始まって中華料理、マカオ料理、タイ料理、パスタやステーキまで、世界各国のファーストフードが20店舗ほどあり、中央に共通のいすとテーブルがある。ラスベガスというより、家の近所のショッピングセンターを思い出してしまった。

ベネチアンカシノはともかく広い。バカラテーブルが何百台あるのか数える気にならないくらいである。おそらくマカオ中のカシノの中で、ワンフロアの面積としては最大ではなかろうか。ただ、惜しむらくは他のカシノと判で押したようにゲームの種類が一緒である。ここはファンタンがあって実際にやっていることが特色だが、ミニマムが500HK$とえらく高い。

時間があるので300HK$ミニマムの三公バカラに座る。しばらくやったのだが6以下のカードしかこない。ピクチャー、8と来るともう一枚は必ず3。たまたま親が0とか1とか2を繰り返してくれたので致命傷にはならなかったが、じわじわとチップを減らして席を立つ。どうにもしまらない。

次はスロットマシンへ。絵柄がエビ、カニ、魚であるのはマカオらしいが、よく見ると当たりの枚数が5から50くらいで、あとはいきなり4000である。私にとってスロットマシンは、200~500くらいの中当りがあるから楽しく時間がつぶせるので、こういう一攫千金か全部すってしまうかというのは面白くないのであった。

そんなこんなで夕方までベネチアンにいて、タクシーでホテルに戻る。結局この日はたいして増減のないまま寝てしまった。

最後は出発日の早朝のカーサリアルで、やはりディーラーとサシでのバカラ。シューの初めからプレイヤー3目(1回外し)バンカー4目(1回外し)プレイヤー4目という立派な罫線を起こしたのだが、ここで中国人のみなさんに見つかってしまった。おいおい、セームドライバーじゃあ・・・と思っている間もなく、絞ることもできなくなるし変な罫線となってしまった。

最後はナチュラル8を起こしたら相手も8でタイ、ナチュラル9を起こしたら相手も9でタイとつらい展開が続き、続いて2連敗したところでゲームセット。まあ、ホテル代とお土産代くらいにはプラスになったので、いい遠征でしたということで再び広州へと向かったのでありました。

Kotai コタイ地区に建設中の新しいカシノ&ホテル

Venetian_food ベネチアンホテルのフードコート。カシノの上がショッピングセンターになっています。

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2008/03/05

08年春のマカオ

2月24日日曜日、午前9時すぎ