魏志倭人伝(20) ~常識で考える日本古代史37
前回のあらすじ
縄文式土器は比較的低温で焼かれており、しかも釉薬(うわぐすり)などの表面処理が行われていないことから、現代の煮炊きのようにいろいろな調理方法が可能であった訳ではない。コメも多くの場合は蒸して食べられたと考えられている。
江戸時代後半までアイヌの人々は、男たちは狩りや漁に出て獲物を狙い、女たちは住み家の近くにいて木の実や球根の採集をするかたわら、穀物を栽培することもあった。おそらく縄文時代の人々も同じように、住居の周囲で稲作を行っていたと考えられる。
狩猟を止めて稲作に集中することも当然可能性としてはありうるが、そのためにはかなりのリスクを覚悟しなければならない。最初に指摘できるリスクは、収穫が基本的に年一回しかないことである。
例えば魚を獲る場合には、もちろん収穫量に多い少ないはあるものの、収穫はほぼ毎日ある。だからたまたま天候等の要因で収穫が得られない日があったとしても、次の日漁に出るまで食べるのをがまんすればいい。しかし、年に一回しか収穫がない場合、もし収穫がゼロだったとしたら次の年まで我慢することは人間にはできない。
第二に、現代と違い病虫害によって収穫量が左右されることである。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の中に明治時代の開拓農民のエピソードがあるが、一年目はいなごのため、二年目は天候不順のため収穫が得られなかった。古代には農薬や品種改良はなく、そうしたリスクは現代とは比較にならないくらい大きかったはずである。
第三に、古代においては現代のように治安が保たれているということはなく、大きな収穫があるということは常に他者からの収奪の可能性があることを意味する。昨今でも、秋になると収穫後の倉庫を狙ったコメ泥棒が出るくらいであり、古代においてその脅威は現代の比ではないだろう。
加えて、前回みたように縄文式土器はコメの調理に必ずしも向いているとはいえない。果実やクリ類、イモ類と違って、コメは熱を加えて調理しアルファ化しないとカロリー源になりにくいのである。
こうしたリスクを軽減化し、漁業に替わって稲作が日本の基幹産業となるためには、おそらく一つの条件が必要だったと考えられる。その条件とは、金属器(青銅器・鉄器)の日本列島への流入である。(この項続く)
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コメント
修学旅行でアイヌの村に行ったのを思い出しました
そういえば顔、濃いかったなぁ...
沖縄の顔と似てるよね。
縄文式土器作るの面倒くさくなったから
弥生式土器はのぺーっとしてるんでしょうか。
投稿 びびり姫 | 2008/04/06 11:46
>> びびり姫 さま
コメントありがとうございます。
沖縄と北海道はわずかに残された縄文人のサラブレッドですので、彫りが深く目が大きく、また毛深いといった共通点がありますね。
土器については、縄文式がおよそ1万年間、弥生式がせいぜい3~400年ですから、弥生式は縄文式の後期に含まれるといっていいくらいです。
弥生式の特徴としては、火にかけて調理したりする実用的な目的にかなり傾斜しているので、おっしゃるように装飾が少なく、のっぺりしたものが多くなっています。
火にかける必要から、かなり薄くなっているのも特徴で、そのために、より焼き物に適した土を使ったり、砂などをまぜてこわれにくくしたりした形跡がみられます。おそらくこの頃から、コメ作りに特化した産業構造になってきたのではないでしょうか。ではでは。
投稿 TAIPA | 2008/04/07 12:24