隋書東夷伝(12) ~常識で考える日本古代史61
4.3 隋と倭国との交渉
前回のあらすじ
隋書の倭に関する記事の最後の段落は、大業三年(607年)に倭国の使者が修行僧を連れて隋を訪問したところから始まる。倭国に仏教が伝わったのは朝鮮半島経由であり、後に戒壇が設置されたのが全国で3ヵ所、大和、下野、大宰府であったことから、使者と修行僧が九州から来たとしても不自然ではない。
8世紀に戒壇が設けられた3ヵ寺のうち、東大寺は今日でも残っているが、下野薬師寺、大宰府観世音寺は当時の規模ではほとんど残っていない。このことについて個人的には一つの仮説を持っている。この3つの寺は、古代倭国における3つの王権を示していて、他の二寺は後ろ盾となる政権の没落によって衰退したのではないか。。
日本書紀の中にも、下野に毛野君(ケヌノキミ)、大宰府には筑紫君(チクシノキミ)という豪族の名前が見える。いずれも、古代の豪族から天皇(大和朝廷)に服属した氏族ということになっているが、実は「キミ」という名前に示されているように彼らは「君主」であり、それは隋の時代にも続いていたのではないかというのが私の意見である。
つまり、隋からみると日本列島=倭国であるが、実際には倭国は、狭義の倭国(九州)、大和(のちの日本)、毛野の3つの実効支配から成り立っていて、そのうち最も強大である倭が日本列島を代表して隋と交渉していたと考えるのである。ちなみに、狭義の倭国も、国号をタイ(人偏に妥)国と改めていた形跡がある。
九州のみを基盤とする王が中国と交渉できるかという疑問があるかもしれないが、後に14世紀、明の時代に、中央に朝廷(北朝)と足利幕府がありながら、九州大宰府を支配する南朝の懐良(かねよし)親王が、「日本国王良懐」を明の皇帝から任命された例がある。6~7世紀にそういうことがあっても不思議ではない。
その国書にはこう書いてあった。「日出づる処の天子から、日没する処の天子に、書を送る。お変わりはありませんか・・・。」皇帝はこの国書を見て不快になられ、鴻臚卿に述べられた。「野蛮人の書は無礼である。以後取り次がないように」
有名な部分である。ただし、ここだけ読めば大国・隋の皇帝に向かって対等の関係を主張したということになるが、前後を考えるとやや唐突な印象である。なぜかというと、前段で述べたように、今回の使節は修行僧の教育を依頼するもののはずであり、あえて皇帝を不快にさせて得になるとは思えないのである。(この項続く)
注.隋書のテキストはhttp://www.hoolulu.com/zh の二十五史・繁体中文を使用しています。
p.s.「常識で考える日本古代史」のバックナンバーはこちら。
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