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2008/11/28

隋書東夷伝(13) ~常識で考える日本古代史62

4.3 隋と倭国との交渉

前回のあらすじ
大業三年(607年)に倭国の使者が修行僧を連れて隋を訪問した際に送られた国書が、例の「日出る処の天子」である。しかし、よく考えると不思議なのは、なぜ多くの修行僧を派遣して教育してもらおうというときに、わざわざ相手を怒らせるような手紙を送るのかということである。

だからこの国書は、同等の国交を要求したとかそういうことではなく、単に倭王の無知によりこういう文書を送ったと考えた方が、前後の脈絡が通じるのではないかと思っている。

もちろん、相手に失礼であると受け取られるような文書を送るということは、相手を軽んじているということだし、新興国である隋に対して、この機会に対等の立場を主張しようという目論見はあったかもしれない。

しかし、「無礼である」と怒った煬帝に対し、「不注意ですみませんでした」という釈明がない限り、使者や修行僧はおそらく無事に帰れなかったと思われるし、翌年裴世清が使者として倭国を訪れることもないはずである。しかし実際には、日本書紀に何人かの僧が隋で学んだと書かれているし、裴世清の名は隋書・日本書紀の両方に書かれているのである。

そしてその背景には、隋にとって倭国より先に片付けなければならない高句麗という存在があった。このことは、後で改めて検討することとしたい。

翌年、皇帝は文林郎(役名)である裴清(裴世清)を倭国に派遣した。百済より、竹島に渡り、羅国を望み、都斯麻(対馬)国を経て、大海を渡る。東に一支(壱岐)国、さらに竹斯(筑紫)国、さらに東に秦王国に至る。

裴世清の「世」が二代皇帝の実名と重なるので唐の時代に書けなかったことは、以前にも触れたとおり。竹島・羅国は百済から倭国の途中であるから、いまの竹島というよりも済州島あたりを指しているのではないかと思われる。

ここで書かれている倭国へのルートは、当然使者である裴世清の記録をもとにしているはずである。対馬、壱岐、筑紫と順に来て、次の秦王国の所在が不明だが、ここまでの距離感からして、いきなり本州というよりも、九州と考えるのが適当だろう。私は、筑紫は博多近辺、秦王国は小倉近辺ではないかと考えている。(この項続く)

注.隋書のテキストはhttp://www.hoolulu.com/zh の二十五史・繁体中文を使用しています。

p.s.「常識で考える日本古代史」のバックナンバーはこちら

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