2007/10/29

人間魚雷 広木幸生引退を惜しむ

先週の島田信広死去に続き、オートファンには寂しいニュース。川口所属で元SMAPの森且行がデビューするまでカリスマ的な人気を誇った「人間魚雷」こと広木幸生選手が先週ひっそりと引退した。まだ37歳であった。

若井、森の25期コンビ(97年デビュー)がデビューする前、川口オートは日本一の売上と日本一のスタンドで日本最弱の選手が走るオートレース場となっていた。かつて川口四天王と呼ばれた広瀬、篠崎、且元、阿部は全国最強の地位を譲り渡して久しく、牛沢や掛川といった若手は川口同士ではそこそこがんばるのだが他地区の選手とぶつかると軽くころがされた。その中で、ただ一人といってもいい光るレースをみせていたのが広木幸生なのである。

広木のレースはその戦闘力に最大の特徴がありまた魅力があった。オートレースは1周500mの楕円形コースを平均時速100km/h以上で走るのだが、高速・小回りで8車が競走する訳だから非常に危険である。だから、原則として前の車を抜く時は「外から」抜かなければならないと決められている。もちろん、外を回るということはそれだけ走る距離が長くなるということだから、多くの場合はインから抜く。その場合のルールは「十分な間隔がある場合に限り内側から抜くことができる」となっている。

「十分な間隔」とは何cmのことをいうのか?実は、そんな決めはない。このルールの解釈は、「インコースから抜いて、抜かれた選手が転倒したり大きく飛ばされたりしたらアウト、そうでなければセーフ」ということなのである。さて、広木は強いから他の選手より後ろからスタートする。前の選手を抜かない限り、彼から車券を買っているファンは損をする。その場合、十分な間隔があろうがなかろうが、前の選手のインコースに突っ込んでいくのが広木なのであった。

これを称して、常連ファンの間では彼のことを「人間魚雷」と呼んでいた。十分な間隔がなくても飛び込んでいくものだから、まるで前の選手を狙ってぶつかっていくように見える。また、この人間魚雷はよく命中して前の車を落車させた。落車させると反則失格となり、完走しても賞金はもらえないし車券の対象とはならない。ただ、どうしてそんなに落車が多いのかというと、川口の選手の多くは下手くそなので、後の気配を察してうまくよけるということができないということもあった。

こうしたレースは選手同士や主催者には大層嫌われて、何度も長期のあっせん停止(出場停止)処分を受けてしまったが、彼のファンは多かった。なぜかというと、おカネを賭けている側からすれば、抜けそうにないからといっておとなしく後ろを回っている選手より、なんとか車券の対象である2着以上になろうと必死になる選手の方が、たとえ外れてもあきらめがつくからである。かなりジャニーズ的なルックスなので、女性ファンも多かった。

わたしの経験で言うと、当時川口の選手で川口以外を走る時に買うことのできる選手は、広木だけであった。実際、山陽オート(山口県にある)に遠征したときに、よく広木から穴車券をとらせてもらった。おそらく、船橋とか山陽とかに配属されていたとすれば、もう少し成績も上がったし、こんなに早く引退しなくてもよかったのではないかと思われる(そう簡単に転倒する選手はいないので)。

そういえば誰だったかオートレース中継によく出てくるゲストが(ラブレター・フロム・カナダ"平尾昌晃だったかもしれない)が片平のことを「かたしらくん」、広木のことを「しろきくん」とよく言っていたことを思い出す(「しさかどくん」という選手もいる)。私の古きよきオートレース時代の選手が次々と去ってしまうのは非常に寂しい。心から引退を惜しむものである。

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2007/10/22

追悼 島田信広

「オートの鉄人」と呼ばれ、私のホームグラウンドである船橋オートで一時代を築いた島田信広元選手が先週食道ガンのため亡くなった。享年57歳。選手時代の登録地は長野だったが、うちの近所の成田赤十字病院ということである。

同い年の飯塚将光(選手デビューは島田より2年早い)が20代から大活躍し、それまで最強だった川口から船橋へと「オート界最強」の座を奪った。その頃、島田は一流の下の方、そこそこ強いのだが全国区になると今一歩実績が上がらないという選手だった。さらに6年後輩になる岩田行雄が頭角を現し、次の時代は岩田とみられていた昭和60年代、なんとそろそろ40歳になろうとする島田の躍進が始まったのである。

他の競技と同様、オートレースも強い選手は若い時から強い。もちろんオートバイに乗って行うレースだから年齢による実力の低下は目に見えるほどではないが、それでも一瞬の判断や反射神経の衰え、落車によるダメージや振動による体力の低下の影響など、普通は30代の半ばを過ぎると成績は下がってくるのが普通である。実際、同い年の飯塚はその時期から下り坂にさしかかっていた。

しかし島田は、この時期から再上昇し全国区の選手に成長したのである。活躍し始めた時期は、なんと12年後輩になる片平巧と重なる。20代半ば、まさに伸び盛りの片平と、本来なら「昔は強かった」と言われるはずの40代島田が、オート界のトップを争った。オートレース界の最高峰であるスーパースター王座決定戦で、平成2年から島田が5連覇、7年から片平が4連覇と、約10年間、オート界はこの二人を中心に回ったのである。

ちょうど私がオートレースに足繁く通うようになった時期、船橋オートはこの二人がしのぎを削っていた。普通開催で、それこそ気が向いた時に行ってもオートレースの最強メンバーが見られるのだから、全国一オートレースをやるのに恵まれていたといえるだろう。また、大レースで浜松、山陽、飯塚に遠征しても、この二人をはじめ船橋の選手を中心に買っていればいいのだから、予想が非常に楽であった。

島田に話を戻すと、彼のレースの特徴は苦手な部分がないということであった。これは、長らく一流の下あたりで積んできた経験が生きていたと思うが、タイムが早い上に差すのが巧く、晴でも強いのに雨だとさらに強い。

オートレースは1周500メートルのコースを平均時速約100kmで回るのだが、200mもない直線を時速150kmくらいで飛ばし、急減速してコーナーを回らなければならない。その際、インコースを回れば前の車を抜きやすいかわりにコーナーがきついのでスピードが出しにくいし、アウトコースを回ればスピードは出しやすいけれどもインに入られるので抜かれやすい。だから、一流選手でも得意不得意があり、例えば片平、岩田はイン、飯塚、高橋貢(伊勢崎)はアウトが得意なコースである。しかし、島田はその両方が得意なのであった。

また、雨が降ってコースが濡れると当然滑りやすくなるので、40mとか50m後ろからスタートしなければならない一流選手は(オートレースは距離のハンデがある)雨になるとなかなか上位には来れない。前を抜くためにはできるだけインコースに入るべきなのだが、晴れの時よりやや外よりにコースをとらなければ滑ってしまうからである。しかし島田は、雨でもイン・アウトをうまく使って、気がついてみると先頭に立っていた。

なつかしく思うのは、いまや若手というより中堅選手となった池田政和(船橋)や浦田伸輔(飯塚)が売り出し中の頃、予選レースは大差でぶっ千切って勝ち進んでくるのに、準決勝あたりで島田と当たると何十メートルと開いている差をあっという間に詰められて、残り2周くらいで抜かれて逆に大差をつけられてゴールというレースを何回もみたことである(これが片平だと、残り半周でちょうどつかまえる)。

いまやオート界最強は片平から高橋、池田時代を経て平成11年デビューの田中茂(飯塚)が席捲している。一方で、飯塚将光をはじめ、小林啓二、篠崎実、阿部光男(先日亡くなったノリックのお父さん)、鈴木章夫といった島田と同年代ないし上の選手が走っているのをみると、まだまだやりたかったことがあったに違いないと思う。謹んで、ご冥福をお祈りしたい。

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2007/07/18

新潟競馬場

新潟競馬場は、いまや日本最大の芝コースを有する競馬場である。数年前までは、右回りで外回りコースの第4コーナーが競馬場の正門寄りにあったのだが、現在は左回りになって昔の4コーナーはいまは1コーナーになる。内回りコースの直線でさえ400mと中山より長く、外回りの直線はなんと600m、そして最大の特徴は1000mという日本で唯一の直線コースがあることである。

新コースになってから今回初めて新潟競馬場に行ったのだが、昔のコースも十分でかかったのに、新コースは冗談じゃないくらい大きいのである。もっともローカルなので、スタンド自体がそれほど大きくないということもあるのだが、スタンド前の芝生席からは1000mのスタート地点はおろか、外回りコースの4コーナーですらかすかにしか見えない。

スタンドは旧コース時代からあるアイビススタンドと、新コースになってからできたNILS(ニルス)スタンドがある。どちらも2階席より上は指定席になるので、コース全体を見渡すためには早めに予約して指定席を押さえる他はない。とはいえ、ガラスを隔てずに間近で見る競馬も悪くはない。いずれにせよ双眼鏡でも使わない限り、1000mのスタート地点付近など見えやしないのだ。

これだけ直線が長いと追い込み馬が有利に思えるが、昔から水はけがよくタイムが早くなる傾向にあるので、先行馬が粘ってしまうことも決して珍しくない。いわゆる、「前が止まらない」というやつである。実際に今回も、外回り1800mの3コーナー手前で先頭に立った馬が、そのまま残り1000mを押し切ってしまうというレースがあった。

そして今回のお目当ては直線コースを使う重賞レース、アイビスサマーダッシュである。通常だとみんな内ラチ沿いに走るのだが、このレースは外ラチにみんな寄ってくるので、見ているすぐ前を走るのがすごく楽しい。いちばん4コーナー寄りの残り250mあたりで見ていたのだが、そのあたりで私の本線、武豊のジョイフルハートはすでにたれて(スピードが鈍って)しまった。

ところがどこをどう走っていたのか、押さえで買っていたサンアディユが抜けたと場内放送で言っている。この馬からは馬連で6点100円ずつ買っている。なんとか人気のないのを連れて決まってくれと思ったのだけれど、2着は1番人気のナカヤマパラダイスだった。まあ、それでも2万円以上つき、幸せな気持ちで競馬場を後にして、新潟駅でおみやげに久保田千寿の1升瓶を2本買って帰ることができたのでありました。

p.s.改めて、今回の新潟地震に遭われた方々にお見舞い申し上げます。速やかに復興されることを心からお祈りいたします。

niigata スタンドの端あたりから4コーナー方面を望む。小さく人が見える生垣あたりから先、左に見えるスタンドには一般の人は入れないようである。

内ラチの切れているあたりが、内回りの4コーナー。これでもかなり遠い。外回り4コーナーあたりまでははなんとかかすかに見える。

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2007/03/15

川口オートレース場(続き)

川口所属で最も有名な選手というと、やはり元SMAPの森クンということになる(もっともジャニーさんに言わせると「SMAPはデビューのときから5人なの!」ということのようだ)。川口ではそこそこ走るが全国区ではちょっと、というデビュー前から大体想像できたポジションに定着しているが、彼のデビュー戦のフィーバーは思い出深い。

養成中にフェンスに激突して同期の選手たちより遅れた森且行のデビュー戦は、今から10年前の平成9年の夏。ただでさえ暑い夏の埼玉で、大量のファンが押し寄せて川口オートレース場はすごい熱気に包まれた。走路が熱くなるとタイヤがすべるので0ハン逃げの森クンには絶対有利であったが、スタートでもし食われる(後ろからスタートした選手に抜かれる)ようだと着外となることは確実。この日のレポートはパソコン通信時代のNifty会議室に載せた私の名文があったのだが、残念ながらとっくに会議室は閉鎖されて今は見ることはできない。

普段は1、2窓しかない単勝売場が森クンの単勝を買う大勢のファンのために特設されたりしてスタート時間は遅れに遅れた。そして走路温度50数度という熱走路の中、見事森クンは逃げ切って初勝利をあげたのである。もちろんオート最盛期にはそれ以上の来場者があったのだが、この時の来場者数の記録はあれから十年破られていないはずである。

個人的に好きなのは森クンよりはちょっと先輩になる広木幸生(ひろき さちお)選手。オートレースには「十分な余裕がなければインコースから抜いてはならない」というルールがあるのだが、実際にはほとんどインコースから抜いている。「十分な余裕」というのは、「インから抜いても抜かれた選手が落車しない」とほぼ同義語であるからだ。しかし広木の場合、十分な余裕があろうがなかろうが前を走る選手のインコースに切り込む。前の選手も急に来られると対応できないからぶつかってしまい落車してしまう。

こういうレースがしょっちゅうあることから、ファンの間では広木のことを「人間魚雷」と呼んでいる。この人間魚雷は百発百中で標的を沈めるので事故や失格がたび重なり、とうとう彼は長期間のあっせん停止(レースに出させてもらえない)を食らってしまった。前途有望でありかつルックスもいいので女性ファンが多い選手であるのだが、残念なことである。ちなみに、彼は川口以外では意外とおとなしいレースをするので人気の盲点になる。個人的には山陽で何度か広木絡みの穴車券を取らせてもらっている。

他にも、森クンの同期若様こと若井選手とか、最強の実力者でありながら度重なる整備違反で広木同様レースに出させてもらえない福田茂選手とか、今では「ノリックの父」としての方が有名になってしまったが昔は大レースを何度も勝っていた阿部光雄選手とか、いろいろ個性豊かなメンバーが揃っているレース場なのであるが、印象に残っている選手を一人だけ上げろといわれると、個人的には「キコウシ」土田栄治・元選手を推薦したい(キコウシというのは彼のオートバイの呼名)。

この選手のレース振りというのはまさに圧巻だった。一番弱い選手よりさらに30メートル前から(だから普通の中堅選手より7、80メートルは前)スタートして、わずか100メートル先の1コーナーではすでに抜かれているという恐るべき選手(とはいえないが)であった。その調子だからゴールでは半周どころか1周(500メートル)近く遅れていることもしばしばで、着順は常に8着(ビリ)。たまに7着があると欠車でもともと7車立てであるか、落車や失格があった時に限られていた。

どうしてあのような選手が存在できたのか不明であるが、それでも彼の車券(当然5-5または6-6)が数百倍つけたということは買う人がいたということだから不思議である。オートレースは勝たないと後半のレースには出られない仕組みになっているので彼は常に午前中の1レースとか2レースが指定席であり、いずれ登録消除(クビのこと)になることは確実なので、朝早いレースで大した金額も買っていない時には、彼の負けっぷりを見るのが結構楽しみであった。

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2007/03/14

川口オートレース場

首都高川口線を下りて西進し、国道122号線岩槻街道を突っ切ってしばらく走ると、青い球形の地球の出来損ないみたいなオブジェが現れる。川口オートレース場である。付近には有料駐車場がたくさんあるのでそのうちの一つに車を止めてレース開始前の場内に入ると、「愛と~希望の~夢を~抱きしめ~、キューポラのあ~る街をみつ~け~た」の歌が流れている。平尾昌晃作曲の川口オートテーマ曲「ぶっちぎりの青春」である。

キューポラとは鋳物(鉄を溶かして鋳型に流し入れ成型したもの)を作る際の溶解炉とそこから延びる煙突のことで、昭和30年代鋳物工場が林立していた川口市は吉永小百合の主演映画にちなんで「キューポラのある街」と呼ばれた。しかしその鋳物工場はバブル頃を最後にほとんどが廃業してその跡地はマンションとなり、いまではキューポラを見つけることは非常に困難である。ちなみにうちの奥さんは川口生まれで、子供の頃道路を挟んで向かい側はずっと鋳物工場だったそうである。

そのように前時代的な歌詞なのだが、作曲の平尾昌晃もかなり古い。日劇ウェスタンカーニバルといっても何のことやらという人がほとんどというのはともかく、今の若い人は「ラブレター・フロム・カナーダ(カナダからの手紙)」だって知らないだろう。ちなみに私はこのデュエット曲は結構好きである。ともかく熱心なオートファンで知られる平尾昌晃が採算度外視で作ったこの曲が、今日も川口オートレース場に響いているのであった。(とはいえ、倖田來未も平尾昌晃音楽学校らしいから、そんなに古くもないのかな?)

川口オートは古くからオート界のメッカといわれており、いまでも他レース場の倍以上の売上げがある。これを反映してスタンドも大きく、他とは比較にならない収容能力を誇っている。ただし最新の設備と最高のグレードを誇るロイヤルボックスが1、2コーナー中間付近にあって、スタート地点は遠いしゴール前は見にくいしという点が玉に瑕。とはいえオートの場合ゴール前で接戦になることは必ずしも多くないから、勝負どころの3、4コーナー一般席で十分楽しいのだが。

そして特筆すべきは場内の食べ物屋の多さである。他のオートレース場はあまり客もこないせいか大したものを売っていないのだが、川口はなかなかである。夏のきゅうりそのまま1本とか、冬の串カツとかモツとか、いろいろ楽しめる。個人的にはソーセージカツなんて結構好きです。もちろんそば、ラーメン、定食関係すべて場内のどこかにある。

一方でちょっと物足りないのは予想屋さんの質。船橋のミスター船橋、伊勢崎の名門社に代表されるようにオートレースは予想屋さんの解説が買い目を決めるかなり重要な要素なのだが、川口の予想屋さんは概して無口で、黙って予想を売るだけである。1コーナースタンド下あたりに選手のロッカー室の配置表とか派閥一覧とか張っている予想屋さんがいて、「ここは同じ広瀬門下で抜かない」とか言っていた(川口は結構同門で決まることが多い)のだが、そういう能書きがないと面白くないのがオートレースである。(この項続く)

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2006/12/28

ギャンブラーのための道教入門(完結編)

さて、こうして現在の道教寺院が残ったと考えられるが、この宗教はわれわれギャンブラーにも貴重な教訓を残してくれている。例えば荘子にこういう一節がある。

瓦(が)を以って注する者は巧みに、鉤(こう)を以って注する者は憚(はばか)り、黄金を以って注する者は眩(くら)む。[荘子・達生編五]

意味はなんとなくお分かりいただけると思う。つまらないもの(瓦)を賭けると巧くできるが、ちょっとしたもの(鉤は飾りのついた帯止め金具)を賭けると躊躇する、懼(おそ)れる。そして価値のあるものを賭けると冷静さを失ってしまう、ということである(「眩む」の字は正しくは違うのだが、IMEでは出てこない)。ここから得られる教訓は、「なくなって困るものを賭けると、リスクがあるだけでなく普段の実力を発揮できない」ということであろう。

さらに議論を進めると、「同じテーブルで戦っている限り、金持ちの方が絶対に強い」ということである。それでは零細ギャンブラーには勝ち目がないかというと、そんなことはない。一つの方法は、自分の勝ち負けと他人の勝ち負けを決して比べない、自分の物差しでプレイするということであり、もう一つは、同じ条件でプレイできるゲームを選ぶ、ということである。

前者は、いくら同じテーブルでブラックチップ($100)が乱れ飛んでいても、自分はレッドチップ($5)、グリーンチップ($25)で淡々と打ち、目標額に達したらにっこり笑って席を立つというクールなゲーム運びをしなければいけない、ということだし、後者は、懐に差のある相手と戦うのに最も適しているのは、リバイなしのポーカー・トーナメントということになる。

実はこの一節、この台詞を言ったことになっているのは孔子なのだが、孔子は「荘子」の重要登場人物で、しかも「論語」では決して言わないようなことを言わされている。つまり、荘子の創作なのである。道教はこれまで述べたように儒教の要素をかなり取り入れているのだが、荘子のこうした内容もかなり関係していると思われる。この「達生(たっせい)編」には、相撲の大横綱双葉山で有名な「木鶏」の話も入っている。

そして、老子のあまりにも有名なこの一節も、ギャンブラーにとって含蓄のある言葉である。

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。[老子・道徳経第一章]

私はこの意味を必勝法などない。勝ち続けることはできないし、永遠に負け続けるということもない、という意味にとらえている。老子も荘子と同様いろいろなところで使われているのだが、最近では「上善は水の若し」が日本酒の名前になっている(若しが如しになっていますが)。

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2006/12/15

ギャンブラーのための道教入門(さらに続き)

つまり、本来商売繁盛や現世利益とはほとんどかけ離れた位置にある老荘思想と道教が今日のような形に落ち着くに至ったのは、「2~3世紀」と「唐・北宋時代」の二度のパラダイム転換を経ているのである。だから、道教寺院というから老荘と考えてしまう方が厳密に言えば間違いで、それらは老荘思想とは別の中国人独特の世界観を反映しているもの、とみる方がよさそうだ。

もう一点注目しなくてはならないのは、中国は北宋期以降、異民族による漢民族支配の時代に入ることである。北宋は女真族(金)の侵入により滅び(1127年)、いまの華南地域で南宋が成立するが、この王朝も常に圧迫を受け続け、遂には1279年モンゴルの侵入により中国全土が異民族の支配下におかれることになる。当然のことながら、それまで国教としての地位を占めていた道教は、逆に迫害されることになるのである。

モンゴル民族による中華政権である元の世祖フビライ・ハーンは、仏教を国教として道教教典の大部分について破棄を命じた。この時代のモンゴル帝国は元と4つのハーン国によりアジアの大部分のヨーロッパの一部地域を版図に収めたのであるが、この中で元が首都として建設したのが大都、現在の北京である。

フビライとその一族は大都に宮殿を築いたが生活様式はモンゴル時代と変化なく、城壁の中に草原部分を残し、そこにパオを作って住んだとも伝えられる。だが、子孫の時代になるとそうもいかず、宮殿に暮らし生活も漢民族と変わらないものとなり、それにつれて帝国自体が弱体化していく。

しかしながら漢民族にとっては、中国全土を異民族に支配されたのは初めてのことである。こうした中で道教寺院はいわば漢民族のアイデンティティとして残存した。政治的には異民族の支配下にあっても、精神的文化的には民族の独自性を保ったという訳である。おそらく、道教が中国の民族宗教として確立したのはこの頃のことではないだろうか。実際、マカオで最も古い寺院とされる観音堂は元の時代に創設されているのである。

また、最初に触れたように道教自体は老荘と直接の関係なく成立したものであるので、宗教に必要である儀式・儀礼の点でそれまでの既存教団である仏教や儒教の要素をかなり大幅に取り入れたものとして確立してきた。つまり、老荘思想を根拠におきつつも、仏陀も否定しないし孔子も尊重する、というある意味節操のない、よく言えば融通無碍な体系として成立してきた。

このあたり日本人にはさほど抵抗はない(日本もそうだから)けれども、一神教のアングロサクソンやイスラムからみるとおそらくとんでもない話なのである。だから前述のマカオ観音堂でも、儒教のフロア、仏教のフロア、道教のフロアとそれぞれ独立していながら、真ん中には天后と関帝が来るという道教寺院としての体裁が整えられているのである。(この項続く)

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2006/11/28

緊急寄稿・ばんえい競馬廃止に思う

ばんえい競馬が風前の灯火である。ばんえい競馬を主催している4自治体のうち、すでに撤退を決定している北見市、旭川市に続いて、岩見沢市も撤退表明を行った。残る帯広市も一市だけ残った場合は単独では開催せず撤退するとしていることから、このままいくと北海道独特の競馬としてファンに親しまれてきたばんえい競馬は半世紀にわたる歴史に終止符を打つことになる。

年度末までにはまだ4ヵ月あるので、もしかしたらJRAとかソフトバンク(笑)の支援で細々と存続する可能性は残されているが、ここまで流れがはっきりしてしまうとこのまま廃止となる可能性が大きい。となると、12~3月の帯広開催の終了日である来年3月26日が最後のレース日ということになる。

かつて、このブログでも岩見沢ばんえい競馬場について書いたことがあり(アーカイブは本編HP→My Favorite Place→公営競技場)、その際も「なくなる前に一度見ておいた方がいいのでは」と言っていたのだが、これほど早くその時が来るとは思わなかった。いま夕張市が財政再建団体になって公立小学校の統廃合とかひどい状況になっているのだが、夕張市ほどひどくはないものの道内自治体はどこも税収不足に悩んでおり、赤字の公営競技を丸抱えする余力はない。

そして、ばんえい競馬を楽しんでいるファンの懐具合も決して豊かではない。一日の入場者が1000人とかそういったレベルでは、たとえ25%と高い控除率であったとしても馬産地、騎手・調教師・厩務員、開催関係者すべてを食べさせていくことは難しい。そして、25%のテラ銭を払って競馬場や場外売場に行かなくても、もっと手軽で楽しめるレジャーは世の中にたくさんあるのだ。

もしこのままばんえい競馬がなくなるとすれば、公営競技における存廃の議論はますます拍車がかかることになるだろう。となると、次に標的になるのは、すでに大部分の施行者が赤字状態であるオートレースということになる。競馬は当分大丈夫だけれど、競輪や競艇だっていつまで続くか分からない。

私の大好きな公営競技が次々となくなっていくとしたら寂しいとは思うけれど、経営的に成り立たないものであれば仕方がない。こうしたギャンブルは関係者や役所が食べていくためのものではなく、ファンが楽しむものだからだ。みんながあえてギャンブルなどしなくてもいいと思うのであればなくすべきであるし、その方がいい世の中であるのは間違いない。

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2006/11/20

ギャンブラーのための道教入門(続き)

こうして生まれた道教教団は、もともとの老荘思想が権力・権威の否定という側面をもっていたこともあり、ときの統一政権である後漢王朝ではそれほど好意的にとらえられていなかった。しかし、その後の三国時代、南北朝時代、さらに隋(581-618)、唐(618-907)といった統一政権の中で、道教は政権に近い位置を保つことができた。

これは、老荘思想を評価したからでも道教教団の実力を認めたからでもなく、ときの権力者が道教のもつひとつの側面である煉丹術に注目したから、つまり不老不死の妙薬を入手するためであった。老荘思想は神仙思想と非常に近く、神仙から不老不死への距離も非常に近い。そのため道家はかなり古い時期から不老不死を求めるため煉丹術に通じており、権力者も同様の発想から道家を近くに置き、その研究に当たらせたのである。

ヨーロッパにおいて錬金術が科学技術の進歩を促した面があったのと同じように、煉丹術もさまざまの副産物を産んだ(錬金術は基本的に鉱物だが、煉丹術は動物・植物・鉱物の別を問わないので、より応用範囲が広い)。火薬もその一つだし、豆腐もそうである。ただし、主原料は「丹」つまり水銀だから、唐の時代には多くの皇帝が不老長寿の妙薬と信じて服用した水銀による中毒で逆に命を縮めたとされている。それでも、唐から北宋の時代にかけて、道教は隆盛を誇り国教的な位置を占めることとなった。

道教寺院が現在のように人格神を祀るようになったのは、どうやらこの頃からのことらしい。というのは、もともと蜀の武将である関羽が神格化されて、関聖帝君と呼ばれるようになったのは北宋期(960-1127)なのである。他国に捕らえられても主君である劉備玄徳を裏切らず、最後には殺されてしまう関羽は、義に篤い人物として民衆に支持されていたと思われるが、同時に計算にも明るかったという伝説があり、いつのまにか算盤の発明者、さらに商売の神様ということになってしまった。このあたり、わが国における菅原道真(もともと怨霊神であるが、学問の神様になってしまった)に近いといえなくもない。

また、関帝と並ぶもう一柱のスター神である天后も、もともと海難除けや無病息災の呪いをしていた媽さんという人(一説によると漁師の娘さんだったそうである)が媽祖として信仰を集め、さらに海の神様の要素も加わって天后という人格神となったようだ。わが国で近い人物像を探すとすれば、やはり卑弥呼だろうか。こうして、老荘思想(道家)とはそもそも別に生まれた道教が、さらにその一部分を取り出した形でときの政権に国教化され、それを受けて人格神が整備されたということである。(この項続く)

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2006/05/26

中山競馬場(続き)

コース自体は昔も現在もほとんど変わらない。1周する1800m、2000m(皐月賞コース)、1周半の2500m(有馬記念コース)、1コーナーポケットの1600m(朝日杯など)、向正面からの1200m(スプリンターズステークスなど)が昔からの主流の距離である。向正面はだ円形の内回りと、おむすび型の外回りコースがあるが、外回りを使うのは昔は1200と1600だけだった。

外回りは3コーナーからスピードに乗ってまくって来ることができるので追い込みに有利であり、内回りはスピードに乗ったところがコーナーで、かつ4コーナー回ってゴールまで300m足らずと比較的短いため逃げ馬有利というのが定石である。中でも内回り1800mというのはそうした傾向が顕著であり、幾多の穴馬券を輩出してきたコースである。

有馬記念もその内回りコースで行われるため、以前は結構逃げ馬が穴を開けた。中でも記憶に残るのが昭和48年のレース。ハイセイコーとタニノチカラに人気がかぶったのだが、なんと逃げ-逃げのストロングエイト-ニットウチドリで決まり枠連万馬券となったのである。その後、ダイユウサクの単勝万馬券というのがあったので有馬記念最大の大穴とはいえないが、当時は衝撃の結果だった。

あと、中山で見た最高の名馬というと、やはりマルゼンスキーの名前が一番に上がる。今では、「参議院議員の橋本聖子の実家は牧場だったんだって」ということになるのだが、当時は、「マルゼンスキーの生産者の娘は、スケートが強いらしいよ」だったのである。1970年の、というより最後の英国の三冠馬ニジンスキーを父に持つマルゼンスキーは、持込馬(母馬が受胎して来日し、日本で生まれた馬。今なら日本産馬である)として当時は外国産馬と同様に扱われ、クラシックへの出走権利がなかった。

しかし、出走制限がある中で3連勝して、3歳チャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークスに出走するや、前走府中の道悪でハナ差の勝負をしたヒシスピード(同名の馬がその後もいたが、それとは別の馬)を大差に千切って圧勝したのである。当時の勝ち時計が確か1分34秒台のレコード。2着ヒシスピードの1分36秒台が普段の勝ちタイムだったので、まさに次元の違う走りだったわけである。

そのマルゼンスキーは結局8戦8勝で引退した。無敗の生涯レコードとして8連勝はいまだに破られていないはずだが、その7勝目が、やはり中山の短波賞だった。4歳限定のレースだったのだが、マルゼンスキーが出ると聞くと出走回避が続出し、結局6頭立てとなった。快調に逃げたマルゼンスキーは、3コーナーで後に菊花賞を勝ったプレストウコウに並ばれて場内が大きくどよめいたが、直線ではあっという間に突き放し、結局6馬身か7馬身離して連勝を伸ばした。

上の世代にトウショウボーイやテンポイントといった名馬がいたので直接対決が期待されたが、脚部不安で早くに引退してしまった。30年も違うので能力の絶対値ではやはりディープインパクトの方が上だろうが、衝撃度という点ではマルゼンスキーの方が上ではなかったかと思えるくらい強かった馬である。

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2006/05/25

中山競馬場

わがギャンブル人生の出発点である。船橋市には、中山の他に、公営の船橋競馬場、船橋オートレースと3つのレース場があるのだが、中山は別格といっていい。なにしろ、当時船橋市立の小学校では、現場学習(まじめな遠足のようなもの)のお昼は中山競馬場のスタンドでというのが定番だったくらいである。

そんな環境だから、高校の時にはすでに競馬愛好会のようなものがあって、大レースの時にはレース予想をみんなで回していた。日曜日にも模試などで学校に行くことが多かったが、5科目終ると大抵メインレースの時間で、テストが終るやいなやラジオで実況を聞いたものである(当然ラジオは学校に持ってきてはいけないのだが、日曜なので大目にみてもらったようだ)。

そういうわけで、ギャンブルデビューも中山である(さすがに高校生の時は行ってませんが)。当時の中山はいまより2世代前のスタンドで、全館冷暖房なんてことはなくて上の方まで吹きっさらしだった。その分入場券だけでスタンドの5階くらいまで上ることができ、そのくらいまで上ると、おむすび型になっている向こう正面の奥(1200mのスタート地点)や、障害コースのバンケットの低いところまで見渡すことができた。ガラスを通さずに見るそうした光景は実に雄大で、時間を忘れて見入ってしまったことを思い出す。

その辺まで上がっても指定席でないくらい、当時は競馬がそれほどメジャーではなかったのだが、遮るものが何もないものだから風が吹いたり冬だったりするとひどく冷える。まして椅子はプラスチックである。新聞紙を敷くという方法はその頃からあったのだが、なつかしいのは1枚100円で座布団のレンタルをしていたことである。寒いときには重宝したものである。

食事時には、5階スタンド奥のラーメン屋に並んだ。椅子も何もない立ち食いで、メニューもラーメンとチャーシューメンとワンタンしかなかったと思う。そこで1杯400円だか500円だか(今思うとちょっと高い?)のラーメンを買って、スタンドの空いているところで立ったまま食べる。そして次のレースのパドックへと向かうのである。

スタンド全体も今よりかなり小さくて、道路の西側は厩舎だった(なんたって美浦トレセンのできる前である)。出入り口は今の4コーナーあたりで、負けるとそこから京成かJRまで「おけら街道」を歩く。いまファミレスのあるあたりにはビニール屋根のどでかい屋台の集合体みたいなのがあってヤケ酒を飲む人達でにぎわっていた。さらに得体の知れない出店や、デン助賭博などもあって、まだまだ戦後の雰囲気を残していたものである(この項続く)。

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2006/03/01

中京競馬場

中京競馬場は名古屋市のちょっとだけ外、豊明市にある。名鉄の中京競馬場前駅からとことこと歩いていくと(確か、バスもある)、10分ほどで着く。織田信長の奇襲で有名な桶狭間古戦場は競馬場のすぐ近くである。

いまは競争体系が変わってしまって、中京競馬は半分ローカルという位置づけに変わってきているが、かつては東京、大阪に次ぐ日本の三大都市圏の競馬場として、JRAの番組面においてもかなり中央開催に近い扱いがなされていた。よく覚えているのはハギノトップレディの勝った高松宮杯(当時)であるが、その頃中京の最高額賞金レースがこの高松宮杯であった。今と違って2000芝、しかも宝塚記念が5月だったので、春の天皇賞に向かないスピード馬は、宝塚記念から高松宮杯というローテーションをとることが多かった。

昭和52年にはトウショウボーイが勝ったこのレース、昭和56年にはこれも人気のあった桜花賞馬ハギノトップレディが高松宮杯に臨んだ。中京のコースは平坦で、さらにコーナーがきつくバックの直線がかなり手前にある押しつぶれた形のコースとなっているため、先行するスピード馬にとってかなり有利である。だから、ハギノトップレディ(逃げ馬)はかなり堅いとみていたのだが、いかんせん牝馬である。レース展開が向かないとまったくダメというケースも考えられたのだが、それは杞憂で6馬身差で圧勝した。

その頃もう一つ中京の呼び物レースであったのはきさらぎ賞で、このレースは大抵京都か阪神の裏開催だったにもかかわらず一流馬が参加するレースであった。というのは、当時は今ほど東西の輸送がスムーズではなくて、関西の明け3歳の一流馬はダービー前に府中を走るということはほとんどなかった。だから、同じ左回りの中京を一度使っておきたいという関係者が多く、2月のきさらぎ賞はかなり注目されたのである。競馬ファンならご存知のとおり、右回りと左回りでは、馬の走り方が違う(どちらの前脚を先に出して走るか)からである。

この競馬場も久しく行っていない。昔は競馬場の回りは畑や林ばかりだったが、今ではどうだろうか。でも、1200mの宮杯など見たくないし、きさらぎ賞も中京で行われないことが多くなってしまった。ちなみに、なぜトップレディの宮杯をよく覚えているかというと、この日宮杯まですべてのレースを外し、宮杯は取ったけれど焼け石に水で、この日がわが生涯における最大負け記録というのが20年近く続いたからである

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2006/02/03

盛岡競馬場

盛岡市内を南北に縦断する国道4号線を東に折れてさらに山を回りこむように進むと、山林原野の中から忽然ときれいに整備された競馬場が現れる。規模こそ小さいがJRAの施設ではないかと錯覚してしまうようなしゃれた造りのこの競馬場が、オーロ・パークこと盛岡競馬場である。

盛岡競馬場はもとはもっと市内にあって、地方競馬らしく小回りダートの競馬場だった。その当時は行ったことがないのだが、聞くところでは最後の直線が下り坂になっているという変わった構造であったらしい。もちろん、上り坂の方が体力は使うかわりに脚元への負担が少ないので、最後の直線は上り坂というのが普通の考え方である。

現在の新・盛岡競馬場に移転したのは、かれこれ10年ほど前のことになる。旧競馬場よりかなり大きく、ダート1600mを2コーナーポケットからスタートするなどというのは他の地方競馬では見られないスケールである(とはいっても、200mくらい2コーナーから下がるのだが)。普通に、最後の直線は上り坂である。だがそれ以上にこの競馬場の特色となっているのは、地方競馬で唯一、芝コースがあるということである。

地方競馬でJRAの競馬場を使うことは多少あるのだが、その場合はダートコースのみの使用となるのが普通である。昔、中京競馬場で名古屋競馬のレースをしていた時期に芝コースのレースがあったと思うが、せいぜいその程度である。ところが盛岡競馬では、自前の芝コースがあるのである。ただし、JRAとは逆で、外側大回りがダート、内側小回りが芝である。スピードの出る芝コースでしかも小回りというのはかなり危ないので、一流馬による芝コースのレースは行われていない。

当地の呼び物レースは、地方競馬屈指の大回りダートコースを使用した、ダービーグランプリ(3歳、ダ2000m)と南部杯(3歳上、ダ1600m)である。また1、2年前から、JRAでも盛岡競馬のレースを売るようになった。施設は最初に述べたようにJRA並みだし、景色も雄大なのだが、来場者が少ないせいか食べ物があまり大したことがなかった記憶がある。

競馬を離れても盛岡は見所の多い街である。岩手山は見ているだけでうれしくなる雄大な山で、麓には小岩井牧場と網張温泉がある。他にも温泉は近在にいっぱいあるし、食べ物もおいしい。30年くらい前は「盛岡イコールわんこそば」だったのだが、今では「盛岡冷麺」「じゃじゃ麺」と合わせて3大麺で売り出している。盛岡冷麺を最初に食べた時は相当感激したのだが、最近は売れすぎて大量生産になってしまったためなのか、いまいちそっけない味に感じるのは気のせいだろうか。

p.s.他にも地方レース場の記事あります。本編HP→My Favorite Place とお進み下さい。

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2005/10/26

阪神競馬場

阪神競馬場へ初めて行ったのはいまから3代前のスタンドのときである。阪急梅田から西宮北口で乗り換え、おんぼろの駅構内を歩き宝塚方面行きに乗り換えて仁川(にがわ)で下りる。駅からしばらく歩くと競馬場である。その途中にへんなしもた屋があり、中に白装束のおばさんが座っていた。もちろん、予想屋である。関西にはおかしな商売があるものだな、と思った。

場内に入ると、穴場(馬券を売る窓口)が木の枠だった。当時、府中や中山はとっくにポリカーボネートだし、札幌や函館だって木枠なんてことはなかった。同じ中央競馬でも、いろいろあるんだなあ、と思った。スタンドに座ってみると、1コーナー(左手)には間近に山が迫っていて、しかもその中腹まで段々畑のように家が建っているのも異様に思えた。さらにびっくりしたのは、内馬場がゴルフコースのようになっていたことである(実際にもう少し後まで実際に9ホールのミニコースとして使われていたらしい)。

同じ関西地区でも、京都競馬場は淀川に沿った広大な敷地を持ち、ご存知のように内馬場は池で、コースも大回りであるのに対して、阪神はこじんまりしていて小回りである。当時は全くの平坦コースで、それがひとつの特徴となっていた。その後、馬場改修で坂を作ったときに、地盤を変えたり芝を替えたりしてひどく時計のかかる馬場にしたことがあったのだが(1600mの勝ち時計が良なのに1分39秒台とか)、不評だったのか1年たたずにやめてしまった。

阪神競馬場の大レースというと、春の桜花賞と、初夏の宝塚記念である。それぞれ、思い出深いレースが多い。桜花賞というと、いまだ記憶に残っているのは昭和50年のテスコガビー。おそらくテスコボーイ産駒で最強の牝馬だったこの馬が、桜花賞で2着ジョーケンプトンにつけた着差が「大差」(10馬身以上)。実況の杉本アナウンサーが「後ろからはなんにも来ない!」と絶叫したレースであった。

宝塚記念ではやはり、昭和52年のトウショウボーイ1着、テンポイント2着のレース。前年の有馬記念以来の競馬だったトウショウボーイに、その春3連勝で天皇賞を勝ったテンポイントが徹底マークしたのだが、結局2200mをそのままの展開で2頭だけで終らせてしまった、というレースであった。このレース、テンポイントの方が人気だったのだが、トウショウボーイの単ともちろん連複も取った思い出がある。

暮れの阪神には、いまはないのだが(正確にいうと、季節を変えて春にやっている)阪神大賞典という3000mのレースがあって、これも興趣あるレースであった。当時は東西の競走馬の交流というのはそれほど盛んではなくて、有馬記念に行かない馬もたくさんいた。テスコガビーの桜花賞と同じ年の阪神大賞典では、その年皐月賞を2着しているロングホークという馬が出ていたのだが、1周目で引っかかってしまった。一時は100m近く前に行ってしまい、全く勝負になるまいと思われたのだが、なんとそのまま逃げ切ってしまった、などというレースもあった。

いまはJRA仕様のたいへん立派な競馬場だが、昔の方が場内もレースもなつかしく感じるのはなぜだろう。

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2005/10/24

21年ぶりの無敗の三冠馬誕生

昨日行われた菊花賞で、圧倒的一番人気に推されたディープインパクトが大方の予想通り勝ち、1984年のシンボリルドルフ以来21年ぶりの無敗の三冠馬(3歳馬のクラシックレース、皐月賞、ダービー、菊花賞のすべてを制覇)となった。JRA史上では、セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンに次いで6頭目、無敗の3冠馬としてはシンボリルドルフ以来ということになる。

ディープインパクトの強さやこれからの競走への期待についてはまた触れる機会があると思うので、今日は別の見地、血統的な話をしてみたい。ディープインパクトの父はサンデーサイレンス。ここ10年ほど日本の競馬を席捲している種牡馬である。今回の菊花賞をみても、出走場16頭のうち、サンデーサイレンスの子が7頭(孫を入れると10頭)である。わが国で現在供用されている種牡馬が数百頭いることからすると、これは非常に偏った数字であることが分かる。

このサンデーサイレンスであるが、実はもうすでに死去しており、あと数年でサンデーサイレンスの子(競馬用語で産駒[さんく]という)は競走馬としてはいなくなる。だからディープインパクトはかなり高い確率でサンデーサイレンス最後の大物となることが考えられ、おそらく早い段階で種牡馬としての第二の人生(馬生?)を歩むことになるだろう。

さて、そうした場合に種牡馬として成功する可能性はあるのかというと、そう簡単な問題ではない。上にあげた過去の三冠馬も当然種牡馬となった訳であるが、いずれも自分自身の競走能力を子孫に伝えることはできなかった。もちろん、種牡馬は年間百頭以上の産駒を産み出すことができるが、繁殖牝馬は年間1頭だけだから、母馬の系統として血統は残っているのだが、父馬の系統としてはほぼ残っていないといっていい。

また、サンデーサイレンス自身米国で優れた競走成績を残している馬ではあるのだが、気性に非常に難があったとされるのと、血統的にもそれほどメジャーではなかったこともあって、若くして日本に輸入された。そして大成功を収めたのだが、このRoyal Chargerの系統、昔から日本では成功することが多いのだが(古くは凱旋門賞5着のスピードシンボリ、近くではナリタブライアンなど)、世界的にみると若干、やや、主流から外れている傾向にある。

世界中のサラブレッドの父を遡ると17~18世紀の三頭の馬、ダーレー・アラビアン、ゴドルフィン・アラビアン、バイアリー・タークのいずれかになることは良く知られているが、かなり断定的にいうと、その中でダーレー・アラビアンの子孫で1913年生まれのファラリスPhalarisに集約されつつある。この馬の孫で1935年生まれのネアルコNearcoと、5代目の孫で1950年生まれのネイティブダンサーNative Dancerの戦いの決着はまだついておらず、おそらくあと1世紀はかかるであろう。

サンデーサイレンスもそのうちネアルコの子孫であるので、その意味ではディープインパクトが世代を超えて生き残る可能性はない訳ではない。だが、やはりネアルコの子孫であり、かつてわが国を席捲したテスコボーイの系統(ミスターシービーはテスコボーイの孫)があれから30年を経てほとんど跡形もなく消えてしまったのを見るにつけ、種牡馬の世界というのもそう簡単ではない、と思うのである。その意味では、引退を急がず、長く競走生活を続けるという選択肢もあるのではないか、と思わないでもない。

p.s.本編HP更新しました。お時間のある方はぜひお寄り下さい。

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2005/07/27

旭川競馬場

旭川競馬場は、北見ばんえい競馬場と並ぶ、わが国最北端の競馬場である。この時期、ナイターで平地(ばんえいでない)のレースを開催している。市内からみると山の向こうにある競馬場で、周りにはゴルフ場とかがあるぐらいで、暗くて、寒い。照明はなんとかコースが見えるくらいで、日本一暗いナイターといってもいい。場内もひどく冷えて、夏場だというのにストーブを焚くくらいといえば想像してもらえるだろうか。

それでも、コース側はまだいい。パドック側にはほとんど人がいなくて(函館や札幌などの場外発売が主なのだろう)、その中を次のレースの出走を待つ馬たちがとぼとぼと歩いているのは、まるで違う世界のことのように見える。さらに、誰がこんな寒い中で飲むのだろうと思わせるビールの幟がはたはたと風になびいている。シュールである。

そもそもナイターというのは、首都圏で勤め帰りの人を狙った戦略であるのだが、道営の平地競馬は土・日がばんえい競馬に取られてしまうため、必然的に平日開催となる。それでナイターということになるのだが、大井や川崎のナイターと違って客が来ないから、これでいいのだろうかというような寂しい状況となる。店を出しても人がいないせいだろうか、店もあまりない。

私が旭川競馬場に行ったのはかれこれ7、8年も前のことであるが、その当時すでにそんな状況であったから、それからずっと景気が良くないことを考えると現在の状況も想像がつく。かつて、岩見沢や帯広も平地競馬をやっていたが、現在ではばんえい専門競馬場になってしまった。旭川もそれらの競馬場と同様の運命をたどるのか、それともにぎわいをとり戻すことがあるのか、微妙なところであろう。

なお、北海道に詳しくない方のために付け加えると、旭川というと札幌近郊のように思われるかもしれないが、札幌からの距離は100km以上ある。旭川からすぐ北の塩狩峠を北に越えると、道北といわれる極端に人口密度の低い地域になる。名物は旭川ラーメンである。一杯飲むなら、市内の「創作えぞ料理花まる亭」のコースがお奨め。正体不明のペロンタンをはじめ道内の食材をふんだんに生かした料理が楽しめる。

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2005/07/14

万馬券

万馬券とは、払戻金が10000円以上となる的中馬券のことである。馬券の額面は100円であるから、つまり100倍以上のオッズである。俗に「マンシュウ」ということもあるが、これは競艇(ボート)の場合の万「舟」券の音読みからきているとされる。ついでにいうと、競輪・オートレースの場合は万「車」券である。

私は公営競技からギャンブルに入ったので、馬券歴はもう三十年になる。しかし、万馬(車)券をとったことは数えるほどしかない。中でも、最初に万馬券をとったのは30代の半ばになってからのことで、ギャンブルを始めてから15年近くたってからのことである。

その間の成績が惨憺たるものであったかというと、決してそういう訳ではない。年間の収支をつけていた頃は、25%の控除率をカバーしてプラスになっていた位である。むしろ、プラスになるような買い方をしていたから、万馬券がとれなかったということなのだろう。というのは、万馬券というのは「荒れる要素がある」レースだから生まれるのであって、どうしても損をしたくないと思えば、そうしたレースは避けることになるからである。

だから、万馬券をとろうと思えば、ある程度大きなリスクを許容しなければならない。普通に予想しているだけでは、なかなか引っかかるものではないのである(最近は3連単などというものがあるので、一概には言えないが)。ある程度年をとるまで万馬券が取れなかったのは、そうした余裕というか遊びの気持ちが足りなかったからなのだろう。

こうした傾向は、カシノに親しんでいる最近でも基本的には続いているようで、「損はしたくない」という気持ちが強いから、勝ってもたいした額にはならないことが多い。逆に負けても致命傷にはなっていない(今のところは)。よく言えば生き残りが図れるが、悪く言えばいつも不完全燃焼ということである。

最近特にはまっているポーカーでいうと、ライブは地道にプラスを積み上げていくやり方、トーナメントは万馬券を取りに行くやり方のような気がする。まだまだ経験は足りないが、諸先達を相手に、いろいろ試したいことを思いついている。最近仕事&仕事でストレスがたまってきているので、電車の行き帰りでそういうことを考えている時間が一日の中で一番楽しい。

ちなみに、私の最高払戻金記録は、2001年安田記念の馬連120,600円×2である。

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2005/06/28

集中力

まずお詫びを。昨日掲載しましたWBCスーパーフライ級タイトルマッチは日程変更になっておりました。大変失礼しました。正しくは、7月18日に開催のとのことです。

集中力はカシノにおいてプラスの要素となりうるのか、このところずっと考えている。

例えば仕事の場合、A、B、C、Dの仕事がある場合、AにとりかかったらA’まで片付けて、次にBにとりかかってB’まで、と続けていくやり方と、A、B、C、Dの仕事を並行してどれともなく進めていくやり方とがある。私の場合ひとつのことに集中してやってしまいたい性分であるので、当然前者である。後者のやり方は私からみると注意力散漫というか、集中して片付けた方が時間も労力も節約できると思うのだが、このやり方が好きだという人も結構いる。

だから、ぼんやりしていると、仕事のペンディングのことを思い出してしまい、明日行ったらこうして、ああして、などと考えて勝手にいらいらすることになる。カシノやポーカーのいいところはゲーム中はそれに集中するのでほかの事を考える余裕がなくなり、結果的にストレス解消になるということである。競馬やオートレースではレースとレースの間が開きすぎて、雑念が入ってしまう点が物足りない。

ところが、ゲームに集中すればいい結果に結びつくのかというと、必ずしもそうではない。囲碁や将棋であれば、集中して指さないと当然負けてしまうし、麻雀も最低限の注意力は必要だろう。だが、カシノにおいてはどうか。ブラックジャックならば意思決定の要素がある分集中力はプラスに働くと思うが、バカラのプレイヤーとバンカーの出目に集中力の有無はあまり関係なさそうだ。

確かに、バカラの推理要素のひとつである罫線の読みや場の読み(誰がツイているかいないか)には集中力が求められるが、罫線のとおりに出目が現れるのならみんな大儲けであろう。かえって、酒でも飲みながらとか眠りながら打った方が好結果に結びつくという説もある。集中してゲームに臨むのは楽しい時間を過ごす効果はあるにせよ、結果に結びつくかどうかはなんともいえないような気がしてきたのである。

何でこんなことを言っているのかというと、私は大酒呑みにもかかわらず、カシノ(ポーカーも)でアルコールはほとんど口にしないのである。最近結果の出ない遠征が続いているので、次回はリラックスした方がいいのではないか、とこんなことをくよくよ考えているのである。次回の遠征は今週末、テニアンである。

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