2008/04/23

亜月裕「伊賀野カバ丸」

昭和54年から別冊マーガレット(通称「別マ」)連載。別マは集英社系の月刊誌というジャンルでは「りぼん」と重なるが、マーガレットと別マは作者の交流がよくあるのに対し、りぼんとはあまりなかった。また、りぼんは付録があるので値段がちょっと高かった。亜月裕もマーガレットで描いたり別マで描いたりしていたと思う。

伊賀の山中で祖父(じっちゃん)の伊賀野才蔵に育てられたカバ丸は、祖父の死(じつは生きている)により東京で学校を経営している名門の大久保家に引き取られる。理事長である大久保蘭は、初恋の人である才蔵の若い頃に生き写しのカバ丸をかわいがるが、孫の麻衣は野生児のカバ丸が苦手である。

ある日、学園の影の支配者(笑)である目白沈寝を助けた(複雑骨折したのを焼きそばの皿で手当てした)ことから、カバ丸は学園間の紛争に巻き込まれる。何しろ忍者だから、相手の本拠地に忍び込んだり機密文書を盗み見たりするのは本職である。沈寝の腹心である野々草かおるとともに、大活躍をするのだが、というギャグまんがである。

この作品の良さはなんといってもノリの軽いギャグである。たとえば死んだはずのじっちゃんは実は生きていて、カバ丸を東京に出そうと死んだふりをするだけだし、カバ丸を厳しく育てたじっちゃんは実は変装していて、大久保蘭の前に現れるときにはロマンスグレーだったりする。

そして勉強は全然できないカバ丸(授業中は寝ている)なのに、じっちゃんに鍛えられた漢文だけは人並み以上にできたりする。金銭感覚もまったくないカバ丸は、沈寝に協力するかと聞かれて「お前、金あるか」と答える。10万か100万かと覚悟した沈寝にカバ丸が要求したのは「焼きそば10人前」である。

じっちゃん(カバ丸を鍛える方の)にそっくりの焼きそば屋のスーばあさんは、大久保蘭のライバル(と自分では言っている)で、カバ丸を見て、「なるほど才蔵の若い頃にそっくりじゃ。蘭ばばあが半狂乱になって引き取っただけのことはある」などと言ったりする。

この作品は当時実写映画化されて、才蔵が千葉真一、沈寝が真田広之、カバ丸をやったのは千葉真一の弟子、黒崎輝(ひかる)である。ちなみに、大久保蘭が朝丘雪路、麻衣が武田久美子、スーばあさんが野際陽子だから、まあ千葉真一ファミリー作品ということであった。

さらに20年の歳月を経て、作者はカバ丸の息子「こカバ丸」を主人公とする続編「伊賀野こカバ丸」を発表している。原作の登場人物がそれぞれ歳を取って再登場しているので、原作を読んだ人にはかなり面白い作品のはず。

p.s.他にも小説・マンガの書評があります。こちらへ。

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2008/03/19

江口寿史「ストップ!!ひばりくん」

1981年から少年ジャンプ連載。いつ終わったのかはよく知らない。連載の途中で突如として中断し、そのままフェイドアウトしてしまった未完の作品。しかしながら江口寿史の代表作の一つということになっている。

1970年代後半以降、江口の「すすめ!!パイレーツ」をはじめ、「キン肉マン」、「Dr.スランプ」、「こち亀」(当時は今ほどの人気ではなく、作者名も山止たつひこ~もちろん「がきデカ」山上たつひこのパロディ~だった)などの人気作品により少年マンガ誌トップであった少年ジャンプであるが、少年サンデーに激しく追撃されていた。

今にして思えば、読者の年齢層がこの頃から上がりつつあったことから、いかにも小学生を対象としたそれらの作品より、サンデーの「うる星やつら」(高橋留美子)「タッチ」(あだち充)といった中・高生向けのラブ・コメ的作品の方が好まれたということがあったのかもしれない。

こうした中で「ストップ!!ひばりくん」は、サンデーのラブ・コメ路線へのアンチテーゼとして描かれたという説もある。しかしおそらく現実はそんな高尚なものではなくて、江口がやくざの跡取り息子が女の子として学校に通っているという設定に自分で感心してしまい、連載を始めたものの落ちがみつからなかったのではないだろうか。

お母さんが亡くなって天涯孤独の身となった坂本耕作クンは、大空家に引き取られることとなったのだが、そこは「関東大空組」というヤクザ屋さんだった。母の古い友人という大空いばり氏はそこの組長であるのだが、跡取り息子の大空ひばりはなぜか女生徒として学校に通っており、しかも耕作の同級生というシチュエーションである。

とはいってもひばりは男なので、何回かばれそうになるのだが、そのたびにお姉ちゃんであるつばめちゃん(うり二つである。同じ作者が描いているので当たり前だが)が身体検査の身代わりとかになってくれて、事なきを得ているのでした。

ひばりを女の子だと信じて迫ってくるボクシング部の主将や対抗暴力団の若旦那なども参戦して、さあこれからどう決着させるんだと思ったところで、「白いワニが来たので」休載が続き、結局そのまま連載終了となってしまった。

しかし少年ジャンプ的には全くダメージとならず(主力連載が中途半端に終ってしまったら本当ならブーイングもの)、この作品のすぐ後に始まった「北斗の拳」(83年~)、「DRAGON BALL」(84年~)、「魁!!男塾」(85年~)などの人気作品により、ジャンプは空前絶後の大黄金期を迎えたのであった。

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2008/03/10

あしべゆうほ「悪魔の花嫁」

「デイモスのはなよめ」と読む。1975年からプリンセス連載。

「がきデカ」で一気に少年マンガ界の主力にのし上がった秋田書店であるが、少女マンガ界では月刊誌プリンセスがなかなか伸びなかった。後に「エロイカ」がブレイクするまでは、この作品や青池保子の前作「イブの息子たち」あたりがメインであった。(ちなみに、「王家の紋章」は私は絵的にキライ)

はるか昔の神話の世界、妹の美の女神ヴィーナスを愛したために、兄のデイモスは悪魔とされ、黒い羽と角を与えられ天上界から追放された。そしてヴィーナスも生きたまま池の底にさかさ吊りにされ、すでに体の半分は腐ってしまっている。

妹を愛するデイモスは、ヴィーナスが人間界に生まれ変わった美奈子(みなこ)を殺して、その肉体をヴィーナスに与えることを思いついた。そして美奈子の前に現われるのだが、魔界に連れて行こうとするたびに何か事件が起こるというストーリーである。

大体は、美奈子に関わりのある何かの欲にとりつかれた人物が破滅していくという物語なのだが、そんなこんなでいつもデイモスの計画は頓挫してしまう。そして、生まれ変わりにもかかわらず、ヴィーナスは「いつまでもこんなところに私を放っておいて」と恨むし、美奈子はもちろん死にたくないから抵抗する。別人格なのである。

こんなストーリーをどうやって収束させるのかなあと思って見ていたが、いつもデイモスは美奈子を連れて行けずに次回へ続くとなる。結局、結末が示されないまま連載終了に至ってしまった。

落ちを考えずに連載をはじめるなといいたいところだが、結末まで行かないまま終わってしまったにもかかわらず名作と言われるのは、この作品あたりから始まった傾向かもしれない。同じような作品があるのだが、その話は次回にでも。

p.s.本編HPに他の少女マンガの書評もたくさんあります。こちらへ。

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2008/03/03

徳弘正也「シェイプアップ乱」

ロス疑惑の三浦和義氏がサイパンで逮捕されたというニュースを聞いて、瞬間的にこのマンガを思い出した。というのは、主人公の乱子が通う高校の教師に三裏先生というのがいて、「剣道初段、柔道二段、合気道三段、書道四段」「先生、本当ですか?」「別名、疑惑の十段の三裏だ」という最高に面白いギャグがあったからである。(段の内訳は少し違ったかも)

1983年より少年ジャンプ連載。この年には「北斗の拳」も連載開始されており、少年ジャンプがある意味で黄金期を迎えた時期であった。

ウェイトトレーニングが趣味で、いつもダンベルでシェイプアップを図っている体操部所属の女子高生、寿乱子(ことぶき・らんこ)と、乱子の家に居候する浪人生(のち大学生)原宗一郎が主人公のギャグ作品である。

この作品の面白さは、最初に書いた三裏先生をはじめとする登場人物のキャラが立っていることで、思い出すだけでも、「走るためだけに生まれてきた女」華歩(かある)ルイ子、走るのだけは速いが教科書は読めないし、顔は当時のスーパーアスリート、カール・ルイスに似ているにもかかわらず英語ができない。

乱子のボーイフレンドである樋口左京くんはとてもかっこいいのだが、家が母子家庭であり非常に貧乏で、お母さんはいつも首をくくろうとしている。お茶碗を裏返してそこにご飯を盛って食べる。スポーツ万能のように見えて、まったく泳げない。無人島からの脱出の際には、得意の正拳突きで木を一本へし折って、それをカヌー代わりにした。

他にもいろんなへんちくりんな登場人物がいて、きっと今読んでも面白いのではないかと思うのだが、もう25年前の作品だけにマンガ喫茶にあるかどうか。ちなみに、乱子があこがれていたのは、当時ミスター・オリンピア(ボディビル世界選手権)を6連覇したアーノルド。いうまでもなく、後にターミネーターを経てカリフォルニア州知事となったアーノルド・シュワルツネッガーである。

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2008/01/24

魔夜峰央「パタリロ!」

1978年花とゆめで連載開始。よく知らないが今でも続いているそうである。百鬼丸のツマブキくんがガス床暖房を盛んに奨めているが、そのたびにこのマンガに出てきた「ガステレビ」を思い出してしまう。あれから20年以上経つが、未だに東京ガスはガステレビを実用化していないようである。

魔夜峰央は確か花とゆめの第一回新人賞の受賞者で、少女マンガ系には珍しい男性作家。最初は怪談マンガを描いていた(パタリロにも時々登場する)が、なぜかシニカルなギャグ漫画に転向した。本筋は、南太平洋上に浮かぶ小国マリネラの皇太子であるパタリロ殿下が、英国MI6の諜報部員バンコラン少佐とさまざまな事件に巻き込まれるというものだが、上にあげたガステレビのように本筋以外の方がおもしろい。

妖怪が部屋の中に入ってこないようにお札を張れと言われたパタリロが、花札や質札を貼った末に鍋の蓋を張る。バンコランに「これは分からない」と言われたパタリロが「おふた」と答えるところは、今思い出しても壷に嵌るところである。

これは落語にあるらしいのだが、藪医者より腕の悪い医者が「雀医者」(そのこころは、だんだん藪に近づく)、雀医者よりさらにひどいのが「土手医者」(そのこころは、藪にもなれない)、そして最悪なのが「ひも医者」で、ものがひもだけに、こいつにかかったら確実に死ぬ、なんてのもあった。

あと、戦闘ロボット「プラズマX」っていうのがいて、パタリロが「それだけじゃないぞ、サインもできる」と言って書かせたサインをみて、バンコランが「戦闘能力はともかく、国語能力には問題がありそうだな」と指摘してしまい、プラズマXが悩んでしまうなんてシーンもあった。それで、「○○能力はともかく××能力には問題がある」というフレーズを時折使ったりするのだが、今では誰も分かってくれない。

こういう小ネタが面白いので、テレビアニメになって「だーれが殺したコックロビン!」なんてシーンを見たら、かえってがっかりして読まなくなってしまったのだが、その後もしぶとく続いていたようだ。どこかに残っていれば、初期の作品を読み返してみたいものである。

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2007/10/30

小林まこと「1・2の三四郎」

昭和53年から少年マガジン連載。アントニオ猪木をこよなく尊敬しブレンバスターを得意技とする東三四郎(あずま さんしろう)が、プロレス界で活躍するまでを描くスポーツ漫画である。

本編は3つの部分に分かれており、不本意な形でラグビー部を追われた三四郎が、親友の南小路虎吉、西上馬之助らとともに格闘部を立ち上げ、校内試合でラグビー部を破るまでが第一部、そのメンバーに参豪辰巳を加えて県の高校柔道界を制覇するまでが第二部、上京してプロレス界に身を投じ、空手日本一の鳴海頁二と組んで若手世界一を決めるタッグトーナメント戦で優勝するまでが第三部である。なお、続編である「1・2の三四郎2」ではファミレス店長から復帰した三四郎が、総合格闘技日本一になるまでを描いている。

作者の小林まことは、この中でも特に柔道には思い入れが強いようで、後に「柔道部物語」という作品も書いている。柔道時代の「エビ」「カニ」などの特訓や、「有効は何回取られても一本にはならない」というようなディテールは専門的である。ただ、「柔道部物語」には主人公や登場人物のカリスマ性がなく、分かるんだけれどもそれほど面白くないという印象があるのに対し、三四郎にはカリスマ性があり、そこがこの作品の最大の特徴になっている。

つまり、それまでの少年スポーツ漫画というのは多かれ少なかれ梶原一騎の影響を受けていて、「巨人の星」「あしたのジョー」に代表されるように、「男たるものスポーツは命がけでやらなくてはならない」「努力を積み重ねれば天才を上回る」というコンセプトがあったのに対して、三四郎の体現していたのは「常に本気を出す必要はない」「才能は努力を上回る」という、梶原一騎的哲学とは全く逆の方向性なのであった。

そのことを端的に示していたのが、プロレス編で三四郎の師匠となるプロレスラー桜五郎である(彼の名言が「格闘技に番狂わせなし」である)。桜五郎は京浜東北線鶴見近郊で「ひまわり保育園」を経営するかたわら悪役レスラーとしてリング復帰を志しているのだが、そのトレーニングたるや、平気な顔をして古巣である新東京プロレスよりハードトレーニングをこなすのである。そして、この作品に出てくる対決のほとんどで、努力を重ねるキャラクターは天才三四郎や馬之助の前に敗れ去ることになる。

おそらく高度成長時代には努力はいつか報われると考えても大きな間違いではなかったが、オイルショック後の世界では背伸びをし過ぎることはいつの日か破綻を招くということが明らかになり、天才がそのまま能力を発揮するという物語の方が現実に近いものと認識されるようになったと私はとらえている。

難しい理屈はともかく、三四郎がラグビー界から始まって、柔道界、プロレス界、総合格闘技界を制覇してしまうストーリーは何度読んでも楽しい。気が滅入った時にはぜひお勧めしたい作品である。

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2007/10/02

武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」

著者は内閣府原子力安全委員会や文部科学省科学審議会の専門委員をしている大学教授だが、こんな本を書いているとそのうちお呼びがかからなくなるのではないかと思われるくらい「官」にとって不都合な本。著者の名前から「田」を取るとかつての名ジョッキーであり武豊の親父にあたる調教師の名前になるのは不思議である。

地球温暖化防止とかリサイクルなんてのは、誰かが言い始めたから仕方なくやっているもので、実際はほとんど社会の役には立っていないということは感覚的に分かるのだけれど、それを専門的な立場から説明した本である。地球温暖化で海水面が何メートルも上がるだとか、ゴミの分別はリサイクルに役立っているとかはみんな嘘っぱちだということがよく分かる。

そして、単にみんなが信じているのが実は嘘だったというだけならば罪は軽いのだが、実際には嘘だと知りつつ自らの名声や権益や商売のために世の多くの人々の善意を「食い物」にしているというのだから、その罪は重い。そのために環境白書が意図的な誤訳をしているというあたりを読んで、やっぱり世の中は間違っているなあ、少なくとも北朝鮮(とかの他所の国)をひどいという資格は日本にはないなあというのが正直な感想である。

地球温暖化についてはいろいろな立場からさらに検討が必要だが(日本ががんばっても地球全体で1%も改善しないからといって、やらない方がましとまではいえない)、リサイクルが大嘘だというのは本当のことである。著者が本書で述べているように、「リサイクルが可能なものは政府が手出ししなくても市場として成り立つし(例.鉄・銅・アルミなどの金属、古紙)、そうでないものは結局資源のムダ使い」なのである。

経済産業省には「リサイクル課」という部署があって、この課があるということは「推進する組織と資金(補助金=税金)があり、ダメでしたというのは面子に関わる」ということだから、日本国としてリサイクルは結局ムダでしたとは口が裂けても言えない。でも、現実にペットボトルを回収してできたペットボトルは存在しないし、仮に存在するとしても最初にペットボトルを作るよりもさらに資源を使うということは間違いないのである。

このことを知っていれば、自分たちが生きていく上において、全く必要でないことについて無駄に心を痛めることをしなくてすむ。仮にご近所にゴミの分別を守らない人がいたとしても気にすることなど本当はないし、マクドナルドで紙ゴミとプラスチックゴミの入れる場所を間違えたって大勢に影響はない(そもそも、客にそこまでやらせるのがおかしい)。本当に考えなければならないことはもっと別にあるはずなのである。

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2007/08/13

いしいひさいち「がんばれタブチくん」

いま朝青龍問題で連日テレビに出まくりの師匠高砂親方。「うつ病とか、よくわかんないんだよねー」とTVカメラに向かって言ってしまうおバカさん加減に各方面から非難が出まくりであるが、実はあれは昨日今日始まった話ではない。1970~80年代初めにかけて現役だった当時の朝汐(のち朝潮、もちろんいまの高砂親方)は、いしいひさいちの「ワイはアサシオや」ですでにギャグのネタにされていたのであった。

その「ワイはアサシオや」と同じく1970年代後半に発表されたいしいひさいちの初期の代表作が、「がんばれタブチくん」である。この作品は、野次を飛ばされると松明(たいまつ)を持って野次った人の家に火をつけに行こうとするタブチくんや、ボールに顔を描いて魔球と呼ぶヤクルト・スワローズのヤスダ投手や、何かあると選手にグランド十周させて八つ当たりするヒロオカ監督が登場する4コママンガである。

本物の方の田淵選手は、六大学のホームラン記録を打ち立ててドラフト1位で阪神に入団したスタープレイヤーであったが、その頃阪神は長期低迷期にあり、観客動員数は巨人に匹敵する人気球団でありながら成績はほとんどBクラスというていたらくであった。こうした中、入団直後から急激に太りだし豪快な空振り三振をかますタブチくんは別名「タブタ」と呼ばれ、ファンからは低迷の象徴とみられていた。

こうした背景からこの「タブチくん」は非常にウケた。現実の田淵選手と同様、79年に新設の西武ライオンズにトレードされたタブチくんは「竪穴式住居」こと西武球場(当時はドームではなかった)でも活躍を続けたのである。その西武はヒロオカ監督が来て日本一になるのだが、その頃には大学からのポジションキャッチャーではなく、ファーストとかライトとか、あまり守備に期待されないところにコンバートされていたのであった。

マンガの中では、奥さん(ミヨ子夫人=前の奥さんがモデル)が「勝てるように、今日はトンカツよ!」とせっかく用意した料理を、「トンが勝つ・・・私はブタということですか」と非常にひがみっぽいのだが、現実の田淵選手は非常におおらかで、当たると痛いといって内角のきわどいコースのサインは出さなかったそうである。そんな具合だから監督には向かなかったものの、コーチには向いているようで北京五輪チームの打撃コーチでがんばっている。

それでも、王貞治の連続ホームラン王を阻止したのはタブチくんだし、六大学のホームラン王記録は田淵の前には長島茂雄が持っていた。選手としては超一流で、にわかに太りだしたからといって非難されるにはあたらない。それはアサシオも同様で、現役時代無敵を誇った横綱北の湖(現理事長)に唯一勝ち越していた上位力士が朝汐なのである。

ご存知のとおり、いしいひさいちは現在朝日新聞の朝刊4コマを描いているが、いまでもヒロオカ監督に似た人やヤスダ投手に似た人が登場する。これはいまを去ること30年前のこの作品がルーツなのでありました。

p.s.本編HPにもいろいろな書評を載せています、こちらへ。

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2007/06/13

澤井健「表萬家裏萬家」

1989年ビッグコミックスピリッツ連載。これ、実はすごい好きな作品なのだが、作者は引退、作品は絶版でいまとなっては読む手段はない。しかしかぜか「初版第一刷」で前・後編を持っており、なぜかいまだに処分していないのであった。

京都・足利女学園の教師であり日本舞踊家元の次男藤原晴信と、茶道家元表萬家の慈瑠(じる)、裏萬家の寿璃(じゅり)の物語。慈瑠の趣味は即身成仏、寿璃の趣味は「キンカンぬって~またぬって~」と言いながらあそこにキンカンをぬることである。タイトルからして、言うまでもなくお下劣マンガであるが、相当おもしろい。

足利女学園から東京の男子校吉兆学園に転勤(転職)した晴信だが、晴信を追って慈瑠と寿璃が上京、札束を積んで無理やり男女共学にしてしまう。そんな浪費が祟って、表萬家は破産してしまう。家元の鳳瑠(ほうる)、家元の娘で慈瑠の母親、そしてなぜか座敷牢に入っている登瑠(とる)もそれぞれの事情で東京に向かう。ちなみに、苗字は全員「萬」である。

物語のクライマックスは、晴信の実の妹が慈瑠と寿璃のどちらかというところなのだが、表萬家の萬鳳瑠家元や奈良のご神鹿、気持ち悪い上杉先生、吉兆学園の番長館山航(表萬家に婿養子に行ったら変な名前になると悩む)、岸田劉生の「麗子」にそっくりな岸田隆盛など、濃ゆいキャラクターも目白押しである。

この作品の後、ほどなく引退(イラストレーターになったらしい)したのは残念なことであった。

p.s.昨日までで、累計アクセス数が18万件になりました。ご愛読感謝いたします。

Omote_1 もはや絶版になっているので、雰囲気を味わうためご覧ください。(問題があれば削除します)

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2007/05/29

J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

アメリカ文学というとこの作品が出てきてしまうのかもしれないが、題名とは違ってロマンティックな作品では全くない。1951年発表の作品で、日本語訳は野崎孝「ライ麦畑でつかまえて」が有名。ただ2003年の村上春樹訳の方が読んでいて違和感がそれほどない。ところどころ、村上春樹になってしまっているところも味わい深い。

高校を中退させられた主人公ホールデンが、学生寮をぶらぶらした後自宅にまっすぐ帰りたくないからニューヨークのホテルに泊まってさらにぶらぶらする話、といってしまうとどこがいいのだか分かりにくいが、実際そんな話である。テーマは、「世の中にいる奴はみんな嘘つきのろくでなしだ」というところにあるが、そういうホールデン自身がかなりの嘘つきでろくでなしなので、主人公に感情移入するのはかなり難しい。

この主人公がほとんど唯一心を許しているのが小さい妹のフィービーなのだが、その妹に、「じゃああんたは、何になりたいわけ?」と聞かれて答えたのが、「子供達がライ麦畑でいっぱい遊んでいて、その脇には危ない崖があるのだけれど、誰も大人が見ていない。そういう場所で、子供達が走ってきて崖から落ちそうになると捕まえてあげる、そんなものになりたいんだ」というのがこの作品の題名である"The catcher in the rye"なのである。

若い頃読んだときには、なんとなく分かったような気がしたのだけれど、いま読むとだから何なんだ?って気がちょっとする。遊んでいる子供より見張っている自分の方が上だというような見下したところがあるのが嫌だし、遊んでいる子供だって見張られるのは嫌だと思う。「ノルウェイの森」でちょっと似た表現がある(草むらには小さな深い穴が開いていて、そこに落ちない人は決して落ちないのだが・・・というような)ところをみると、訳者である村上春樹もかなり影響を受けているのかもしれない。

ちなみに、ちょっと別のところに書いたことがあるのだが、私のなりたかったものは「灯台守り」である。他に誰もいない灯台で、近くを通る船が事故に遭わないように毎晩きちんと海を照らしている。うーん、かなり似ているというか、そのまんまのような・・。ということで、へんなところで人格形成に係わっている作品なのでありました。

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2007/05/15

柳澤健「1976年のアントニオ猪木」

中学校の時、交換授業でアメリカンスクールの生徒達が来たことがあった。そのとき、自由に話していいということだったので、私が同じくらいの年の奴に聞いたのは、「ブルーノ・サンマルチノを知っているか?」だった。そいつの答えは「知らない。聞いたこともない」だった。その頃ジャイアント馬場とアントニオ猪木のことを知らないという日本の小中学生はまずいなかったから、すごく不思議に思ったのを覚えている。(ブルーノ・サンマルチノは当時のWWWFヘビー級チャンピオン。東海岸で抜群の人気者、と言われていた)

そんな疑問に回答を与えてくれるのがこの本である。つまり、アメリカではそもそもプロレスはショーであると広く認識されており、だからインテリ層(死語?)が見るものではないとされていたこと、そしてその原点はテレビ草創期のスポーツ中継において、プロレスくらいしかできるものがなかったこと、があるのであった。(野球やアメフトが放送できるような中継施設もなく、VTRもないのでボクシングが早く終わってしまったら目も当てられないことなどによる)

かたや日本では、何人も国会議員になってしまうくらいプロレスラーの知名度は高いし、元ジャイアンツの馬場や柔道日本代表の坂口や小川、大相撲の三役力士力道山や天龍、ラグビー日本代表の草津や原などアスリートからの転進が当たり前なので、レスリングのプロがプロレスだと認識されている。だからこそ、浜口京子の親父がアニマル浜口だとみんなうれしくなるのである。プロレスにそういうイメージを確立させたのは、馬場ではなく猪木だというのも衆目の一致するところであろう。

そして、その分岐点が1976年の猪木vsアリ戦にあるというのも間違いないことである。この試合、アリとの契約があるのか試合の動画が再放送されることもDVD化されることもなく、実際にテレビで見ることができたのは今では貴重な経験になってしまった。その舞台裏にはさまざまないきさつがあったのだが、ともかく現役のボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが、いまUFCとかプライドでやっている異種格闘技戦をリアルファイトで戦ったのであった。

この試合、ご存知のようにアリは立ったまま、猪木は寝たままで15R戦ったのだが、当時お付き合いのあった古武道(棒術)の専門家が、「本気で戦えばああする他に方法はない」と言っていた。あれから30年を経て、今でも打撃系と寝技系が戦えば猪木vsアリの状態になることは珍しくない。しかし今では戦法や技術がより洗練され、寝技系は寝たままでも相手の関節を極めに行けるし(例えばノゲイラ)、打撃系は相手のガードする足を越えて殴りに行ける(例えばヒョードル)。その意味で、あの試合が膠着したのは時代が早すぎてお互いにそれだけの技術がなかったからであるというのがこの本の結論で、これには全く同意するものである。

いまや、馬場や猪木の全盛時代を知る人も少なくなりつつあり、もしかするとこの本もあまり売れないまま絶版になってしまう可能性もあるので、興味がある方はいまのうちに入手されることをお奨めする。決して、読んで損はない本である。ちなみに、私がインド国歌を聞いたのは、後にも先にも猪木vsタイガー・ジェット・シンのNWFヘビー級タイトルマッチだけである。

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2007/04/20

小野不由美「屍鬼」

最近、日本の作家の作品は得てして過激な方向へ行けば注目を集められる的なところがあり、あまり読書欲が沸かないことが多い。その中でこの作品はなかなか読み応えがある。この作品の内容やあらすじを全く知らないという人にはぜひお奨めしたい作品である。

そういう事情で、内容についてはあえて触れない。まあ単行本の帯「尋常でない、何かが起こっている」くらいでとどめておくこととして、単行本の上巻・下巻のうち上巻の2/3くらいまで読んで、これが「その話」だと分かったとしたら大したものである。その意味で、この作品は先を急がず前半部分をじっくり読むべきである。2日くらいは絶対に楽しめる。

下巻に入ってしまうと、大体あらすじが読めてしまう(そもそも冒頭部分に結末があるのだ)ので、むしろディテールを味わうことになるのだが、物語の中の論理としてもつじつまが合っているかどうかはちょっと首をひねるところがあるものの、けして熱くならない語り口と破綻しない文章力はなかなかのものである。

反面、こういう作品の読み方として、たくさんの登場人物の中で誰かに感情移入して読むという方法があると思うのだが、誰にも感情移入しにくいという弱点がある。作者はある種ノンフィクションのような読み方を期待しているのかもしれないが、ノンフィクションだって感情移入して読む人はいるのだ。

作者の小野不由美は、「なんたら館の殺人」シリーズ綾辻行人の奥さん。綾辻行人は西原のマンガで麻雀が下手だと言われていた。ちなみに、この作品をパロディにした「脂鬼」が収録されている京極夏彦「どすこい安(仮)」もかなり面白い。

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2007/03/27

鴨志田穣・西原理恵子「アジアパー伝」

さる20日に鴨志田穣(かもしだ・ゆたか)氏が亡くなった。享年42。カメラマン、エッセイストというより西原理恵子の元夫としての方が有名かもしれない。元夫とはいっても、「毎日かあさん」によると最近は再び同居していたようだ。

タイに渡ってひょんなことから戦場カメラマンの橋田信介(2004年死去)のアルバイトになり、やがて本職のカメラマンとなっていくあたりのストーリーが中心となっている表題作は、それ自体かなり読み応えがある。ただ、一緒に載っている西原のショートコミック(本題とほとんど関係のない内輪ネタ)の方でむしろ売上を伸ばしていたのではないかと思われるのは、ちょっと悲しいところか。

それでもこのシリーズは単行本5冊になるほど続いたのだから、かなり評価されていた作品ということになる。実際、もと共産党員でありみんな平等な回転寿司をこよなく愛する橋田信介が、カンボジアやボスニア・ヘルツェコビナでかなりきわどい世渡りをしていたり、お手伝いさんに財産を持ち逃げされたりする話を読むと、思想と人柄はあまり関係がないんだなあということがよく分かる。

他にも、漂泊のタイ在留邦人ミヤタのおっさんや、格調高い韓国の酒豪キムさんとカクさん、タイ社会のかなり底の方を生きている人たちなどたくさんの魅力的な人物が登場する作品なのだが、橋田氏の他に一人だけ上げろといわれるとわたし的には札幌時代から続くカモ(作者鴨志田氏)の親友である土肥(ドイ)君を推薦したい。

ドイ君は故郷札幌で出版社をやっているのだが、たびたび韓国を訪れるうちにハングルがぺらぺらになってしまったので、二人で韓国に行くといろいろ安い宿や飲み屋を開発してくれるのである。この二人は豊平川の上に走っている水道管の上を渡ろうとして途中まで行ったら雪が降ってきて九死に一生を得たというようなあぶない真似をしているのだが、この二人とキムさんとカクさんがソウルでとことん飲んだ「鯨飲のソウル」はかなり好きな作品。単行本5冊を初めから読むのもいいが、この話の載っている「煮え煮えアジアパー伝」を最初に読むと入りやすいと思う。

そういえば最近ジンギスカンを食べていないなあ。氏の冥福を祈って、久しぶりにラムを食べたくなってしまった。

p.s.本編HPに他の書評もたくさんあります。本編HP→本・スポーツとお進みください。

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2007/03/12

みなもと太郎「ホモホモ7」

昭和40年代後半少年マガジン連載。その頃の少年マガジンはもちろん「巨人の星」「あしたのジョー」から続く梶原一騎根性路線の全盛期であったが、そっと隠れるようにこの作品や松本零二の「男おいどん」(時期的にはちょっと後だけど)が連載されていたのでありました。

パチンコ屋のトイレからマンホールを通って行くスパイ組織「ホモホモブロック」は、基本的に長官とホモホモ7だけでやっているに等しい零細組織である。その名のとおり、男とおカマだけでやっているのだが、かたや女だけのスパイ組織「レスレスブロック」は武器弾薬資金メンバーともに豊富な世界組織で、この両組織の抗争を描いた作品である。

主人公の7(セブン)は各エピソードごとに困難な任務を与えられ、ほとんど支援も得られないままレスレスブロックに立ち向かい、なんとか生きて帰ってくる。なぜかというとこれはギャグマンガだからである。だから7の顔も普段はギャグタッチなのだが、突然ゴルゴ13になったり(この頃からあるのだ)、高倉健になったり、星飛雄馬になったりする。長官はいつも本部にいて大して強くない(7のいない間にレスレスブロックが攻めてきたりすると本部が壊滅してしまう)が、その風貌だけはFBIとかCIAとかMI6のようだ。

7はレスレスブロックから逃げてきたスパイであるセブリーヌちゃん(このネーミングもいいですね)と仲良くなり、ここからストーリーが展開していくのだが、なんといってもギャグまんがなのでなんだかよく分からないままエンディングを迎える。昔のことなので単行本2冊程度の長さで、なぜか「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」の梶原一騎三部作の単行本は持っていなかったが、この作品は持っていた。小さい頃からみんながあまり関心を持たないようなものに興味を引かれる性質だったらしい。その意味で思い出深い作品である。

そしてなぜか30年以上の時を超えて、この作品はYahoo!コミックなどの電子媒体で読むことができるのである。立ち読み(タダ)でも何ページかは見られるので、興味がある方はどうぞ。

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2007/02/08

渡辺和博とタラコプロダクション「夫婦鑑」

さる2月6日に渡辺和博氏が逝去された(享年56)。同氏や「金塊巻」の共同執筆者神足裕司氏は私とほぼ同年代であり(コータリは同学年)、訃報を耳にしてまず最初にちょっと早いよなぁと思ったけれど、考えてみればそういうことがあってもおかしくない年代に差し掛かってきたということでもある。

渡辺氏は伝説のマンガ雑誌「GARO」の編集長を経て、84年「金塊巻」により一躍スターダムにのし上がった。この作品は作家、弁護士、銀行員、商社マン、料理人その他もろもろの職業について、お金持ち(マル金)と貧乏な人(マルビ)でどのくらい差があるのかを明らかにしたもので、マル金、マルビはその年の流行語大賞を獲得した。

その「金塊巻」もかなりおもしろいのだが、今回お奨めするのはその次の作品である「夫婦鑑」(ふうふかん)である。ここでは、当時できたての言葉であったDINKs(Double Income No Kids)に対抗する概念としてOITKs(オイティクス、One Income Two Kids)を提唱したのである。もちろんDINKsはマル金、OITKsはマルビである。DINKsは片付ける人がいないので家をいつもきれいにしておかなければならないが、OITKsはきれいにしても子供がちらかすので片付けること自体を放棄する、などの違いがあるそうである。

おとうさんの月の小遣いは年収の100分の1になる、という法則をもとにしたマル5(年収5百万円=月のこづかい5万円)とマル8(年収8百万円=月のこづかい8万円)の考察もおもしろかった。生活していく以上必要な支出というのはある訳で、その支出を勘案するとマル5は毎月赤字が出てマル8は毎月自由に使えるおカネがあることから、服装から趣味から行き付けの酒場からその際のおつまみから全然レベルが違ってきて、この両者を同じサラリーマンという範疇で括るのは間違いである、といった主張だったように思う。

またニューファミリーの区分として、買う車によって「カローラ派」「シビック派」に分かれるという話もあった。カローラ派は車の中に家庭がどんどん入り込んでしまうのに対し、シビック派は家庭とは一線を画していて、チャンスがあれば妻以外の女性を助手席に乗せようという魂胆があるということである。

他にも、「多摩ニュータウン」「新松戸」「姉」「妹」、カローラとシビックの延長線上にある「ベンツ」「BMW」などなど、マル金・マルビのようなさまざまの対立軸に関する面白い考察がなされていたのであるが、バブルの崩壊とともにみんなマルビになってしまうような世の中の動きに対応したのか、その後の著作ではあまりこうした議論はみられなくなってしまった。

「マルビ」という一種相対的に貧乏な人(つまり本当に貧しい訳ではない)を揶揄できるのは、いつかはみんなマル金に近づけるだろうという幻想があるからであって、それがなければただの嫌味になってしまう。その意味では、古きよきバブル時代を代表する作品のひとつであったということができるかもしれない。

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2007/02/07

ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」

この小説のことを全く知らないという人はまずいないにもかかわらず、全部読んだという人もあまり多くはない作品である。この小説が出典となった言葉はいろいろあって、マーケットシェアの極めて大きい企業のことを指す「ガリバー」は、もちろんこの小説の第一部小人国のガリヴァーから採られている。第二部でガリヴァーは巨人国に行くので、その意味では中小零細企業を示す言葉でもおかしくはないのだが。

第三部でガリヴァーが行く島のひとつが飛ぶ島ラピュタで、アニメ「天空の城ラピュタ」はもちろんここから発想されたものである。そして第四部でガリヴァーは知的な馬の国フウイヌムに漂着するが、ここで馬を悩ます野蛮な人類の呼び名がヤフー、インターネットの巨大検索サイト「Yahoo!」の語源である。(注)

(注)Yet Another Hierarchical Officious Oracleの略だともいわれているが、Yahooに語呂合わせしたっぽい。

英国の船乗りガリヴァーは1699年に南太平洋に向かう航海の途中で暴風雨に遭い難破、九死に一生を得るがたどり着いた先は小人国リリパットだった。やっとの思いでそこから脱出して英国に生還し、1702年に喜望峰から太平洋に進むがここで再び暴風雨に遭って難破、今度は巨人国ブロブディンナグに漂着する。やっとの思いでそこから脱出して英国に生還し、1706年に東アジアに向けて出帆するが今度は海賊に捕まって、・・・・といい加減にしてくれよというほどのワンパターンの展開である。

イメージ的には子供向けの冒険小説のように思えるのだが、実はこの作品は18世紀初頭の英国社会に対する風刺小説であり、そのいわんとするところは大人の読者でないとまず分からないと思われる。第一部では王権や政党政治に対して鋭い指摘がなされており、第二部では貴族社会や貴族趣味、第三部では文明や科学、第四部では知識や教養が主たるテーマとなっている。それら世間的に価値があると思われているものは実は下らないもの、少なくとも相対的なものにすぎないというのが作者の視点のようだ。

そしてこの時期日本は鎖国の状態にあるのだが、第三部でガリヴァーは、ラピュタからバルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップといった島々を経て、日本(長崎)からオランダ経由で英国に帰ったことになっている。ひっきりなしに沈思黙考して我を忘れてしまうので「たたき役」という召使いを連れている島(ラピュタ)と並列だというのが当時の英国人の日本に対するイメージかと思うとちょっとおもしろい。ちなみにガリヴァーは「踏絵」をやらされそうになるがなんとか勘弁してもらったと書いてあるが、「踏絵」をさせられるのはもちろん日本人だけであり、これは嘘であろう(それを言ったら全部嘘なのだが)。

全文読むと最後の方はちょっと作者「いっちゃってる」かな?というところもあるのだが、児童文学にとどまる作品では決してないので、ご興味のある方はぜひ読み返していただきたい。因みに、大抵の図書館で子供の本のところに置いてある。

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2007/01/15

小泉八雲「怪談」

ご存知のとおり日本の伝奇小説の最高峰であるが、なぜか差別語問題以降入手しづらい状況にあった。現在出ているのは偕成社文庫版。昔の「怪談」は「耳なし芳一のはなし」が最初だったはずなのに、いまでは「むじな」から始まるのはその影響か。作者小泉八雲はご存知のとおり明治に入ってから日本に帰化した米国人ラフカディオ・ハーンのことであり、もともと新聞記者で仕事で日本に来たハーンが、欧米に日本を紹介する意図で英語で書いた本である。

作中でもことわっているように、ここに収録されている作品は上の二つの作品や「雪女」「ろくろ首」をはじめとして八雲の創作ではなく、日本の民話から採られたものである。それでも現在そうした話は八雲のこの作品以外で読むことは難しく、おそらくいろいろと細部の違っている伝承から分かりやすく整理された形で作品にまとめた八雲の功績は、きわめて大きい。そして、柳田邦夫の「遠野物語」がまさに民間の伝承の純粋な形を残しているのに対し、この「怪談」はそれに加えて日本の地理・歴史の紹介という要素がある。その意味で、いま読み返してみるといろいろと新鮮な発見があって楽しい。

例えば「雪女」、吹雪にあったきこりの二人が小屋で一夜を過ごしていると雪女が現れて息を吹きかけると年寄りの方が死んでしまう、という前段の話であるが、この話の舞台は越後でも奥州でもなく、武蔵(東京・神奈川近辺)なのである。確かに奥多摩や秩父、丹沢あたりは雪になることも多いのだが、イメージ的にもっと雪国の話かと思っていた。でもよく考えてみると、雪女がお雪となって嫁に来た時すごい色白で驚かれたというのだから、みんな色白な東北や新潟というより関東の話という方がそれらしい。もしかしたら昔の関東地方はもっと寒かったのかもしれない。

「鏡のおとめ」という作品では、井戸の中に沈められてしまった鏡の精が、「私は昔、藤原家の宝であったので、藤原の血をひく足利将軍(義政)に献上してほしい」という場面がある。確かに足利氏、つまり源氏の祖先である清和天皇は藤原氏の血筋だし、足利将軍の歴代の正妻である日野氏も藤原一族なのだが、いわゆる五摂家、藤原本家からはかなり遠い。それでも当時藤原家の縁につながると認識されていたということは興味深い。あるいは、文化人将軍である義政だけに、平安王朝文化を支えた藤原氏とイメージ的に近かったのかもしれない。

そうした作品もあるのだが、やはり白眉といえるのは「耳なし芳一」であろう。琵琶法師の芳一(琵琶法師は目の不自由な人の職業)が平家の怨霊に呼び出されて夜な夜な平家物語壇ノ浦の段を演奏させられる。それに気づいた和尚が、芳一の全身に経文を書き込んで怨霊に見えないようにするのだが、耳だけ書き忘れて持っていかれてしまうという話である。書き込まれた経文は般若心経。井沢元彦氏がよく書いているように、般若心経は空の理論(色即是空、空即是色)について述べた理論書なので、なぜ怨霊除けになるのかと思うのだが、おそらく八雲の認識は聖書と経文は同じようなものなんだろうと思う。

p.s.本編HPに他の書評がまとめてあります。本編HP→本・スポーツへ。

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2006/12/19

古谷三敏「BARレモンハート」

年の瀬である。気がついてみると今年も残すところ2週間を切った。昔と違って正月も普段の日もあまり変わらないようになってきたのだが、そこはやはり正月。お盆がただの夏期休暇になってしまった今でも年末年始というのはまた格別の感慨がある。そして年末といえば紅白歌合戦。かつては紅白の価値は今と比べ物にならないくらい高くて、大晦日に紅白を見ないなんてことは考えられなかった。そんな時代背景とともに思い出すのは、この長期連載作品である。

作者の古谷三敏は赤塚不二夫のアシスタント出身で、出世作「ダメおやじ」はまさに赤塚チックなのだが、1980年代後半から漫画アクションに連載されたこの作品は、打って変わってのうんちくマンガである。BAR「レモンハート」は冴えないマスターが一人でやっている場末の酒場なのだが、和洋中問わず何の酒を頼んでも出てくるという信じられないBARなのである(一度、「カストリはないだろう」と言ってきた地上げ屋に、「それがあるんです。カストリの味がわかるお客さんが来るのを待っていたんです」と返した場面は印象的だった)。

そのレモンハートに来る客の中で、「泣きの反」こと反流行(そり りゅうこう)というドサ回りの演歌歌手がいる。確か持ち歌が「涙の連絡船」で、歌っているうちに感極まって涙を流すのが有名なのだが、その反が奥さんに、「俺も長いこと歌手をやってきたが、いっぺん紅白に出てみたいもんだなあ」という場面がある。

一緒にいたマネージャー兼務のかみさんが、「何いってんだい。丈夫で一年歌って来れたんだから何よりだよ」と言ったのに続いて「それよりあんた。事務所から”涙の連絡船”が売れたからって、ボーナスが出たよ。3月たまってた家賃を払って、バンマスに借りてた5万も返して、今年はもう借金がないよ。どうだいおまいさん、寿司でも食べていかないかい?」「そいつは豪勢だね」というやり取りがある。いかにも年の瀬という会話で、なんとも言いようのない風情を感じた。

そして、その年の紅白は麻薬騒動などで辞退者が相次ぎ、なんと反にNHKから電話が入るのだが・・・、という話で、いまでもたいていのマンガ喫茶にはある作品なので、続きはぜひそちらで。他にも作品には「リレミト!」「ルーラ!」とか言い合ってるドラクエ2の頃のものとか(なんせその頃はホイミとべホイミくらいしか復活呪文がないのだ)ある。BARのマンガだけあって作品ごとに一つの酒が題材となっているのだが、泣きの反の回は「杏露酒」、ドラクエはなんだったかな~?「まほうのすず」の形のウィスキーなんだけど・・・。

そういえば、「いちばんドライなマティーニは」なんてメガネさんが講釈を垂れる回もあったなあ。二番目は「ベルモットの瓶をちらっと見てジンだけ飲む」、一番は「ベルモットの瓶を思い浮かべながらジンだけ飲む」だそうです。こういう話だと止まらなかったりして。

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2006/12/12

前川つかさ「大東京ビンボー生活マニュアル」

かなり前から、貧乏ファンである。一時期「貧乏神髄」(あの作者は最近は貧乏していないようだ)にはまったし、今でも水曜夜は貧乏自慢の番組「銭形金太郎(略して銭金)」が大好きである。この冬は大根が豊作でかなり安いし味も悪くないので、このところ大根おろし+しらすのせが1日1度は食卓に乗る。あと数年で現実のものとなる(はずの)リタイア後には、ぜひ清貧の生活を送ってみたいと今から楽しみにしている。

その意味で、1990年代前半に週刊モーニングに連載されたこの作品は思い出深いものがある。主人公のコースケは大学卒業後バイト生活を送りながら、下北沢か下高井戸あたり(新宿の高層ビル群が見えて渋谷にも近い)の6畳一間のアパートに暮らしている。一日部屋で本を読んだり図書館に行ったり、1週間寝続けてみたり、カネがなくなると「パンの耳生活」をしてみたりと、とてものんびりした生活を送っている。

マッキーに喧嘩を売った松本零二の大山昇太(男おいどん、本編HP→本・スポーツ)のポストバブル版ともいえるキャラクターなのであるが、コースケの場合はそれほど肩に力が入っていない。「学生さんですか?」と訊かれて「社会人です」と答えているのだが、定職はないし部屋には何もモノがない。カセットコンロのボンベだけ持っていて本体は隣人に借りる。新宿に行く時も隣人に定期を借りる。自分は「テイク&テイク」、隣人は「ギブ&ギブ」、二人合わせて「ギブ&テイク」なんだそうだ。

そんなコースケにも彼女がいてしょっちゅう遊びに来るし、大家のおばさんにも寺の和尚にも気に入られているし、いとこの大食漢マサボーのほか、司法浪人やら大道芸人やら中華料理の店主やら元ヤクザの不動産屋やらいろんなお友達がいて、全く寂しそうでない。ボストバブルの新しい貧乏の形というか、そもそもこれが貧乏といえるのだろうか、というストーリーである。

「高度成長期の貧乏」大山昇太は最後は夢破れて姿を消すが、「ポストバブルの貧乏」コースケは和尚の弟子がいる四国に旅に出るところで終わる。世代の差というか、日本の経済力の違いというか、そのあたりが現れているようで興味深い。なお、作者の前川つかさはこの連載の後、政治マンガ「票田のトラクター」の作画担当として活躍した。

p.s.本編HPに他の書評あります。本編HP→本・スポーツへ。

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2006/11/22

夏目漱石「我輩は猫である」

先週の土曜日、久しぶりに蕎麦屋に行った。蕎麦屋に行くと、頼むのは大もりか大ざるである。わさびはつゆに溶かずに直接蕎麦につけるのが本式らしいが、構わずつゆに溶いてしまう(どうせたいしたわさびではない)。蕎麦を手繰って半分ほどつゆに浸し、そのまま噛まずに飲み込む。蕎麦はのど越しで味わうのである。この食べ方は小学生の頃、夏目漱石のこの作品を読んで始めたのであった。

その頃、生まれて初めて文庫本というものを見て、早速買ったのがこの作品であった。確か角川文庫だったと記憶している。小学生用の装丁もしっかりして字も大きい「児童文学全集」よりかなり値段が安くて、これならいろんな本が読めるぞ、と思った。ただ、活字は非常に小さくて、紙もそれほど良くなかったから目はひどく疲れてしまう。実際に小4まで両目1.5あった視力が、文庫本を読むようになって1年ほどで0.3近くにまで落ちて、メガネをかけなければならなくなってしまった。高校受験の頃にはすでに0.0いくつかの世界である。

さて、この小説であるが、明治時代に文芸誌「ホトトギス」に掲載された作品で、基本的に1話読み切りになっているので読みやすい。上の迷亭氏が主人公である苦沙弥先生宅に蕎麦の出前を頼むシーンはとても好きだし、他にも、天彰院様のご祐筆のなんとかとか、義太夫に行こうとしたら悪寒がしてとまらなくなる話とか、七代目樽金とか、おなじみの薀蓄話がいろいろ出てくるのがこの小説の楽しいところである。ちょっと暇になった時に適当に数ページ読むのには最高に適した本であるので、そういうニーズのある方にはぜひお奨めしたい。

この小説が世に出たのは日露戦争の直後だからもう100年も前のことなのだが、登場人物の話し言葉や苦沙弥先生の奥さんの亭主に対する態度などを読んでいると、今とそんなには変わらないなあ、という気がする。戦前(第二次世界大戦前)は閉鎖的な世の中で戦争が終わってようやく自由になったというのはやや思想的に偏った人の言い分で、実際にはそんなことはなかったという意見があるが、この小説などを読んでいるとなるほどその意見もうなづける。

それはそうと、この小説を初めて読んだ時は、胃弱とか、タカジャスターゼとかになぜか好奇心を覚えてしまったのであるから何とも不思議である。これまでの人生で、二日酔いには数限りなくなったけれども、胃腸が弱いと感じたことは一度もない。

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2006/10/24

ねこぢる「ねこ神さま」

1998年に死去してからも根強い人気を維持し続ける作品。2匹のねこ神さまがいわしを手に人々の願いごとをかなえていく、というと夢のある作品のような気がしてしまうが、とんでもない。中身は毒と不条理が詰まっている。この作者の描いたねこをかわいいという人が多いけれども、私は最初見た時からかわいいと思ったことはない。

ねこ神さまの上司は神様である。神様に「お前たちもシャバの人たちの役にたたないと」と言われて、「なんであんなクズ野郎共に」と下界に行ったねこ神さまが「はーい、並んで並んで」と順番に注射していたのは「シャブの人たち」でした。

ねこ神さまのライバルは犬神さまである。「俺はクラブでDJをやるぜ」「私はアニメの声優」と夢を語る若者たちを、犬神さまは「お前らは国家の奴隷じゃワン」と建設労働者と女工にしてしまう。ねこ神さまがやってきて「なんてことするんだ。みんなの夢がかないますように」と祈ったら、日本は世界の最貧国になってしまいました。

敵軍の空襲に、「なんてことだ。空軍の大編隊が健在であれば・・・」と切歯扼腕する将軍の前に現れたねこ神さま、「どーん」と登場させたのはボンテージに鞭をもった「大変態」の方でした。

このあたりはまあ普通に面白いのだけれど、だんだんあちらの世界に近づいていく。個人的に一番この作者の性格を表しているように思うのは、きれいなお嬢さんがねこ神さまを見て、「まあ、かわいいにゃんこ。うちにもにゃんこがいるのよ。みーこっていうの」と言われてねこ神さまがお屋敷に行くと、そこにいたのは蛇の化け物で、「それ、にゃんこじゃないよ」「しーっ。こいつ、なんか普通じゃないよ」という話。

ちょっと飛んでる作者のちょっと飛んでる作品なだけに、これを心底面白いと思える貴方はちょっと飛んでいる、かもしれない。

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2006/10/05

柳沢きみお「俺にはオレの唄がある」

昭和62年アクション・キャラクター連載。少年マガジンに「翔んだカップル」を描いていた頃はこれほど息