2008/04/28

酔って道端に寝た話

最近はあまりお酒を飲まないので急激に弱くなってしまったが、昔は際限なくお酒が飲めた。この季節になると思い出すのは、酔って道端で寝たことである。

いまから22年前の1986年、3年間の大阪勤務から東京に戻ってすぐのことだった。当時は、一軒目ニュートーキョーで飲み、二軒目銀座のはずれにあるカラオケスナックで歌いつつ飲み、最後にラーメン屋で食べつつ飲むという三段活用で終電あるいはタクシー帰りという日が週に何回かあった。その日は金曜日あたりで、おそらく翌日が休みということでがんがん飲んだものと思われる。

最後の店がどんな店だったかよく覚えていないが、時間はとっくに真夜中を過ぎて終電も行ってしまっていた。場所は東銀座のあたりで、なぜか他のみんなとはぐれて一人になってしまったのである。財布をみると何千円かしか残っておらず、タクシーで帰るには現金が足りない。それでも飲んでいたのは、当時大阪ではタクシーの精算がクレジットカードでできたから、当然東京もそうだろうと思って安心していたのである。

車があまり通っていなかったので銀座通りに出て、タクシーを止めた。そして、「クレジットカードで」というと、どのタクシーも「うちはチケットしか使えません」というのである。十台くらい聞いてみんなそう言われて、ようやく気がついた。東京ではクレジットカードでタクシーに乗れないのだ。

それでも何か方法があったはずなのだが、なにせ酔っ払っているもんだからどうしていいか分からない。時計をみると午前3時近くである。4時半くらいになれば、国電(まだJRになる前である)も動き出すだろう。それまでどうするかと考えていたら、そこに地下鉄駅に下りていく階段があった(おそらく銀座駅か、銀座一丁目駅)。

階段の途中からはシャッターが閉まっていて行き止まりであるが、風よけにもなるし一休みするにはちょうどいいように思われた。シャッターの前まで下りて行き、階段に腰をおろす。頭の下に枕がわりにかばんを置き、足をシャッター近くまで伸ばすと、階段の傾斜がちょうどいいあんばいでなんとなく寝られるような気がする。もうこれ以上動くのは面倒くさい。そして、そのまま眠ってしまったのである。

目を覚ましたらもう5時で、2時間近くはそのまま眠っていたことになる。あたりはまだ暗かったが、後は電車に乗ってしまえば家に帰れる。そして二日酔いのもうろうとした頭で、有楽町の駅へと向かったのであった。

後から調べてみると、当時東京ではクレジットカード会社がタクシーチケットをカードとは別に出していて、それを使わなければタクシーに乗れないということが分かった。さっそくそれを取り寄せたのはいうまでもない。ちなみに、当時も個人タクシーのチケットはあったが、私はほとんど見たことがなく、会社を変わってからみんながばんばん使っているのを見て相当驚いた。

いま考えると、寝ている間に身ぐるみはがされるおそれもあったわけで、相当に危ないことであった。そしてその後はそうなる前に家に向かったのでそんなことはなかったのだが、今から5、6年前にもう一度そういう目にあってしまった。それはまた別の機会に書くとして、私が酔っ払って道端に寝たのは、この2回がすべてである。

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2008/04/25

法華経に関する考察(続き)

法華経の趣旨を「布教と教団の維持が最終的な悟りである」と解釈すると、いろいろなことが見えてくる。

お釈迦さまの説いた教えは思想的哲学的に優れたものであるが、それだけでは後の世に残らない。実際に、インドで仏教が盛んだったのは紀元前3世紀にマウリア朝のアショカ王が仏教を保護した頃で、その後衰退に向かっている。印刷も通信も放送もない古代には、人から人への口伝えしか情報伝達の手段がなく、新興宗教である仏教には「人」が十分ではなかったのである(インドの伝統宗教はヒンズー教)。

お釈迦さまのすぐれた教えを残したいという人々にとって、これは非常に大きな問題であった。だから、法華経という仕掛けを使って、教団の拡大を図った。その仕掛けの一つが、法華経の中に頻繁に現れる、「修行者○○は、悟りの世界では△△となり、永遠の存在となるだろう」的な教団内における地位の保証である。

これはさきのオウム真理教において、「○○をマイトレーヤ正大師とする」「△△を科学技術大臣とする」というように、教団への寄与を教団内の地位の向上で評価したやり方と同じものである。そして、法華経を重視する教団は中国そして日本へと伝来した。いま世界で仏教徒の多い国は日本とタイであり、インド周辺ではわずかにチベットくらいにしか残っていないのである。

もう一つの仕掛けが、昨日述べた観音さまの登場である。法華経において観世音菩薩は、人々の願いを世界のどこにいても聞き届け、実現させる仏様として描かれている。まさに現世利益である。それまでの経典では来世における幸福や心の平安を実現させる仏様はあっても、そのものずばり現世において願いをかなえる仏様はなかったはずである。

今も昔も普通一般の人々の関心は、哲学的な悟りよりも、いま目の前にある願いをかなえてほしい、災難から逃れるように助けてほしいというものであろう。その意味で法華経は、より人々の本音に応える形で、お釈迦さまの教えを再構成した、ということになるだろう。もちろん、仏教という教団により多くの人を取り込むために、である。

さて、その法華経の中に「これはどうか」という内容が実は含まれている。法華経の内容は、お釈迦さまが「善男子善女人」の前で述べたことになっているのだが、にもかかわらずその中に、「悟りの世界には女人がいない」と、はっきりと書かれているのである。

じゃあ女の人はどうなるかというと、法華経に書いてあるのは、悟りを開いた女性修行者が「みんなの目の前で女性の体の特徴がなくなり、男性の体となった」のである。正直、これが悟りの世界であるならばちょっとご遠慮申し上げたい。私はやっぱり、女性がいた方がうれしい。

日本仏教史において最大の女好きといえば親鸞上人ということになるが(僧侶として初めて正式に妻帯した)、その親鸞上人が法華経を選ばず、阿弥陀如来の浄土三部経を選んだのは、案外このへんに理由があったのかもしれない。(完)

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2008/04/24

法華経に関する考察

注.私は軽い意味での仏教徒ではありますが、この記事は宗教というより思想として考察するものです。したがって、「なにがなんでも法華経が一番(南無妙法蓮華経)」という立場ではありませんので、ご了解のうえお読みいただくようお願いいたします。

マカオの街角に行くと、よくビルの壁に貼ってある手書きの広告がある。「妙法百家楽 xxxx-xxxx(電話番号)」

百家楽とはもちろんバカラのことであるから、文脈から判断するに、「妙法」とは「必勝法」というニュアンスが強いものと思われる。これをよく見ているうちに、「法華経」正しくは「妙法蓮華経」も、そのニュアンスは「仏に近づく必勝法」に近いのではないかと思うようになった。

昔から、必勝法と名づけられるものに本質的なものなどない。「数ⅡB必勝法」といえば、試験で出てくるであろう範囲を予想し、最小の努力で最大の効果を得ようとするものであって、数学そのものに興味を持つようには作られていないのと同じことである。

話は飛ぶが、日本にある仏像で最も多く作られているものは何だろうか。統計があるかどうか分からないし、あったとしても見たことはないが、国宝級のものは別として(阿弥陀如来が多い)、普通の仏像では観音さまとお地蔵さんが多いように思う。

お地蔵さん、つまり地蔵菩薩が多いことについては、近世以前の死亡率、特に乳幼児死亡率が高かったこととの関連が大きいと思われるが、一方の観音さま、観世音菩薩はなぜなのか。そして、観世音菩薩が登場するお経、つまり観音さまの根拠規程が実は法華経なのである。

そういえば、まだ法華経を読んでいなかったなあということで、ここ1、2週間、朝晩の電車の中で法華経を読んでいる。テキストは岩波文庫。ヘッドホンでバッハの「平均律クラヴィーレ」を聞きながらお経の原典を読むという、なかなかシュールな通勤である。

そして読んでいるうちに気がついた。法華経というのは、お釈迦さまが最終的にたどりついた悟りの境地を説いたお経ということになっている。確かに、他のお経を受けての表現が多く見られるし、お釈迦さまも「これまでの教えは方便であり、このお経が最終的な悟りの境地である」と言ったことになっている。

ところが法華経を含む大乗仏典は、お釈迦さまの死語数百年たってから成立したもので、お釈迦さま自身が述べたものではないということは仏教史をひもとけば明らかである(後から作ったから他のお経を引用できる)。そして、法華経にはその最終的な悟りがどのようなものかは書いてない、と普通は理解されている。

だから、お経の名前を唱えなさい(題目、南無妙法蓮華経)ということになるのだが、つらつら読み進むうちに、「ん、それはこういう意味で読めるんじゃないか」と思うようになってきた。それはどういう意味かというと、「お釈迦さまの教えを広め、教団を維持することが”最終的な悟りの境地”である」ということである。(続く、かもしれない)

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2008/04/18

春の特別連載 ~マダムYの素敵な青春(最終回)

注.この物語はフィクションです。

銀行には転勤が多い。そして定期の異動というのは支店長など偉い人だけで、下っぱの異動は月に何度も発令された。男子行員は3年くらいごとに支店を変わるが、これは不正防止という意味合いもある。異動が発令されると関西だろうと九州だろうと、1週間以内に引継ぎを終えて転勤先に出勤しなければならない。

一方で、女子行員は同じ支店に何年もいることが多いが、しょっちゅう寿退社があるので、それを穴埋めするために転勤があった。マダムYは下町支店に入ってまだ1年余りだが、そうした事情で転勤になったようである。転勤先は都心支店で、埼玉に住むマダムYからすると、下町支店のある上野から銀座線に乗って10分ほど先になってしまった。

都心支店は優雅であった。ビジネス街にあるためお客様はそれなりに多かったが、下町支店と違って朝から晩までひっきりなしということはなかった。マダムYの今度の受け持ちは「定期預金」で、主に得意先係がお客様から預かってきた定期預金や通知預金を証書にするのが仕事だった。前にやっていた「センター」とは違って、一日中入金処理をしたり入金通知の電話をしたりしなくてもいいので、大分と楽である。

店全体に余裕があるので、「5・10日(ごとうび)」とよばれる忙しい日を除いて終業時間の5時近くなると店の男子行員が誘いに来る。そして7、8人くらいのグループですぐ近くの銀座とか、赤坂とか、あるいは新宿あたりまで飲みに行くのである。その頃のマダムYは何といっても19か20だから、お誘いは毎日のようにあった。

そして、会計はというと、若い女の子はタダか、せいぜい500円くらい分担するだけである。その頃でも牛丼1杯300円だから、ほとんど出していないのと同じである。おまけに、遅くなるとタクシーで家まで送ってくれる。銀行員だから給料が高いということもあるが、都心支店にはお金持ちの人が多かったのである。

そんな訳で、都心支店に来てからマダムYの預金残高はどんどん増えていった。これまで自腹で飲んでいたのに、ここへ来てからほとんどゴチである。同じ銀行なのになんて違うんだろう、とマダムYは思った。りえちゃんがこの支店に配属されていたらどうだっただろうと考えた。でも、きっと独立心の強いえりちゃんは自分で払わないのはかえって嫌がるような気がした。

でも、こうした毎日はマダムYには、全く苦にはならなかったのである。マダムYの青春は、連日の飲み会とともにそのピークを迎えていた。

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携帯に入れてある堅ちゃんのアラームが鳴った。今日も、マダムYの一日が始まる。毎日のように銀座・赤坂・新宿に出没したマダムYが、なぜこうして家庭の主婦におさまったかについては、また別の話になるのであった。(完)

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2008/04/10

春の特別連載 ~マダムYの素敵な青春(第3回)

こうして同期入社のえりちゃんと仲良くなったマダムYは、仕事が終わると大宮に飲みに行った。考えてみれば、高校卒で就職しているのだからまだ20歳になっていないのだが、その頃は社会人であればそれほど固いことは言わない時代だったのである。

えりちゃんのお母さんは病院で食事を作るのがお仕事だった。えりちゃんの部屋は使わなくなった病室で、古いベッドを二つくっつけてその上にこたつを乗せているのであった。マダムYとえりちゃんは、飲みに行って遅くなるとこの部屋のおこたで二人で寝た。

朝になると、えりちゃんのお母さんが「朝ですよ」と言って、二人の朝食を持ってきてくれた。お母さんの作ってくれた病院の朝ご飯である。二日酔いの疲れた胃腸には、入院患者さんと同じメニューはやさしかった。

夏になると、銀行では交代で1週間ずつの休暇をとる。マダムYはえりちゃんと一緒に休みをとり、グアム島へ行った。シーズンオフでグアム島は空いていて、ホテルのプライベートビーチには「なまこ」がたくさん浮いていたが、真っ白い砂浜を2人だけで過ごした。

「なんか私、銀行向かないんだよねー」
トロピカルドリンクを飲みながら、えりちゃんは言った。
「仕事つまんないし、堅苦しいし、もっとなごやかな職場がいいなー」

「そんなこと言わないで、一緒に働こうよー」とマダムYは言った。えりちゃんがいないと、一緒に飲みに行く相手がいなくなってしまう。確かに銀行はそれほど楽しい職場ではなかったが、かといってつらくて仕方がないということもなかった。ようやく仕事も覚えてきたし、そもそもマダムYはからどんなことにもすぐ慣れてしまい、あまり深く考えないというお得な性格をしているのである。

それからしばらくして、えりちゃんは会社を辞めてしまった。マダムYは他の同期生や先輩たちと付き合うようになったが、なんとなく前ほど職場に親しみを感じなくなった。京浜東北線で気分が悪くなると、有給休暇を使って休んだ。だから、また春が来て、2年生になってすぐに転勤の発令を受けても、それほど寂しくなかったのであった。(この項続く)

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2008/04/07

花粉症だけじゃなかった ~せいうち日記19

先週火曜日の晩はひどく冷え込んだ。私の住んでいる北総台地では、になるとぐんぐん気温が下がって外はおそらく5度くらい。帰りはコートなしなので寒く、お風呂に入るとき大げさでなくがたがた震えてしまった。おまけに風も強く、花粉症の身にはかなりつらい状況である。

その翌朝、4時頃にはもう目がさめてしまう。鼻が詰まって寝ていられないのである。今年は早くから抗アレルギー剤を飲んでいるのであまり症状がでなかったが、いよいよ花粉症の季節になってしまったか、と思った。私の花粉は杉ではないようで、毎年4月の今時分からゴールデンウィーク明けまで続くのであった。

体はきつかったが、さすがに花粉症では会社は休めない。水曜、木曜と寝不足の目をこすりながら出勤したのだけれど、睡眠時間は3時間程度。それも帰ってすぐ体力の限界がきて倒れるように眠り、3時間たつと鼻が苦しくて目が覚め朝まで眠れない、それの繰り返しである。

仕方がないから4時くらいから起きて、パソコンを打ったりしていた。体を起こすと、少しだけ鼻が楽になるのである。そして金曜日。なんとか会社をやり過ごして家に帰る途中思った。これは花粉症じゃあないんじゃないか?

というのは、私の花粉症の特徴であるくしゃみが止まらないということが全くないし、のどだけでなく頭や耳の奥がきりきり痛むというのも疑わしい。そういえば、前にも花粉症と思っていたら全然違って風邪だったなどということもあったような気がする。

そして土曜日の朝早く、奥さんと車で耳鼻科へ。「のどが真っ赤だし、中耳炎になりかけてますね。花粉症じゃここまでなりません」と先生。やっぱり花粉症だけじゃなかったんだ。抗生剤と腫れ止めの飲み薬、それと少し強めの抗アレルギー剤を処方してもらう。

この日は4月最初のストラドル杯であり、ここでWPJ決勝前の最終調整をしたかったのだが、そういうわけで休養日になってしまい残念ながら参加できなかった。そして昔のブログを見ていたら、わずか10ヵ月前、同じように花粉症でなくて風邪ということがあったのを発見した。年を取ると昔のことは覚えているが最近のことを忘れるというのは、本当である。

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2008/04/03

春の特別連載 ~マダムYの素敵な青春(第2回)

注.この物語はフィクションです。(と、断っておかないと書けません・・・)

就職したマダムYが配属されたのは、上野杉坂屋前にあるM銀行下町支店であった。埼玉の農協とは違い、朝からひっきりなしにお客さんが来る大変忙しい職場であった。驚いたのは、3時に店が閉まっても、得意先の人たちが集金から戻ってきたり、店を閉めてからの業務があったりして、夜になってもちっとも仕事が終わらないことであった。

新人のマダムYは、「センター」という部署に割り当てられた。この部署は、本店から回ってくる入金伝票を端末機で入力してお客さんの口座に入金し、入金されたことをお客さんに電話でお知らせすることが昼の仕事であり、閉店後は総合振込や給料振込などの予約を、同様に端末機に入力することである。

ちなみに、これらの仕事は現在ほとんどが機械で自動処理されている。当時はこうやって、人の力で処理していたのであった。

「えーと、”当座”押して、”入金”押して、口座番号と金額入れて、振込人名入れて、よし完了!」とエンターキーを押すと、東京事務センターの大型電算機に情報が送られる。その後になって、「あれー、金額間違えちゃった」という場合は、その処理を取り消してもう一回打ち直しである。こわい主任さんの所へ行って、誤記取消の赤い紙をもらわなければならない。

「なんだー、また誤記かぁ」主任さんも忙しいので気が立っている。「いつまでも新人じゃねえんだぞ。いい加減仕事覚えろ」と言われつつ赤い紙をもらう。この誤記取消の多い少ないは、支店の事務成績に反映され、めぐりめぐってボーナスの査定にも影響してくるので、上の人にとっては重要な問題なのであった。

「あー、やってられない」と大宮のスナックでいつも言うのは、同期入社のえりちゃん。高校卒でM銀行に入った何百人の中で、同じ下町支店の新人は4人いるのだけれど、帰る方向が同じえりちゃんとはすぐに仲良くなった。えりちゃんは「当座」という部署にいて、一日中手形と小切手の印鑑照合をするのが仕事である。仕事が終わって御徒町から大宮まで京浜東北線に乗り、週に一度はぐちを言い合うのである。

「だからさー、こんなに一日中目一杯働かされて、何でこんなに給料安いの。」銀行員の給料は高いと世間ではよく言われるものの、それは何年か働いた後のことであり、若いうち何年かは他の業種と変わらない。しかも、仕事はきついし残業時間もちゃんとつけられないので(サービス残業というやつである)、時給にするとかえって給料はよくない。

「それに、男はつまんない奴ばっかだし、女は怖いおばさんばっかりだし、何なのこれ。」えりちゃんの言うように、高校出立てのマダムY達からすると、下町支店の男性職員はひどくおじさんに見えた。それに女性職員の多くは主婦で、支店の懇親会があるとタッパウェアに料理を詰めまくって家に持って帰るようなおばさんたちだった。

就職なんてこんなもんなのだが、うら若きマダムYたちにとって、ストレスがたまりまくる職場であったようである。(この項続く)

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2008/03/27

春の特別連載 ~マダムYの素敵な青春(第1回)

注.しつこいようですが、この物語はふぃくしょんです。登場する人物・団体等はすべて架空のものです。

苦しくて仕方がない。いくら息を吸っても二酸化炭素ばかりが入ってきて、酸素がちっとも肺に届かない。水の中でもないのに、空気の層は頭の数十センチ上にある。マダムYは身長が140と少ししかないので、満員電車に乗ると人の海の中に沈んでしまうのだ。

京浜東北線はいつでも満員で、埼玉県から東京の会社に通うマダムYは毎日人にもみくちゃにされながら通勤していた。押されるのは痛いし、周りに背の高い人が来ると空気が薄くなるし、おまけにときどき勝手にひとの体をさわる不届き者までいた。息が続かず、途中の駅で下りてしまうこともよくあった。

もう限界だ、下りなくちゃと足を前に進めようとしたら、堅いものにぶつかったような音がして足が痛くなった。あれっ、と思うと、布団を下方向に水平移動して、かけぶとんで顔をぐるぐる巻きにしながら、壁を足で蹴っている自分に気がついた。マダムYは極めて寝相が悪いのである。

なんだ、夢だったのか。

マダムYが専業主婦になって、早くも25年が経とうとしている。25年といえば、100年の4分の1である。子供の小さい頃はそれなりに大変だったけれど、最近では毎日のんびりとお庭の手入れをしたりして過ごせることを、マダムYはうれしく思っている。そういえば、いまは娘が東京まで通勤しているんだからなあ。

マダムYは高校を出てすぐ、就職した。進路指導の先生が、「M銀行とS銀行、どっちにしますか?」と聞くので、どっちがどういうところかよく分からないので最初に言われた方のM銀行にしたのである。実はその2つの銀行は後に合併していまでは1つの銀行になってしまったのであるが。

当時、銀行の女子の求人は、高卒が大部分だった。なぜかというと女の子のほとんどは24歳までに結婚して退職してしまうので、22、3で大卒を入れても、仕事を覚えた頃になると辞めてしまうからである。

そして、当時の銀行の採用基準の一つとして、「未婚の女子行員は自宅通勤であること」というのがあった。だから、首都圏のはしくれである埼玉の女子高生であるマダムYにとって、1つの銀行当たり数百人、地方銀行や信用金庫まで含めた業界全体ではおそらく数万人にのぼる銀行への就職というのは、かなりありふれたものであった。

ただ、マダムYはいまも昔も世間知らずである。マダムYにとって銀行は、9時に開いて3時に閉まるヒマな仕事というイメージだったのである。おまけに近くの金融機関である農協は、おじいさんやおばあさんが用もないのに集まってきてお茶を飲んだり、たまにサービスでバス旅行に行ったりするところだったので、新人はお茶くみが仕事なのだろうとマダムYは思っていたのである。

しかし、現実はもちろん、そんなに甘いものではなかったのであった。(次回に続く)

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2008/03/26

黒字になるはずがない新銀行東京(続き)

昨日は、銀行や信用金庫が貸さないような取引先に無担保で貸すのだから、新銀行東京に多額の貸倒損失が出ないはずがないと書いた。今日はもう一つの要素として、銀行という商売がそもそも今の時代では採算に合わないという話である。いくら貸し倒れてもそれ以上に儲けが出れば収支は黒字になるのだが、今日ではそれは無理なのである。

昔は銀行というと年に何回かは取引先を招待してゴルフ大会を行っていたし、信用金庫や農協でも預金者を連れてバス旅行などをするところが珍しくなかった。どうして今は銀行がもうからなくなってしまったのか、その原因は貸出金利にある。

いくらきれいごとを言っても、銀行の基本は金貸しである。お客さまから集めた預金を取引先企業に貸し出すことによって、その利ざやを収入源としている。そしてその金利は、基本的に公定歩合にせいぜい上乗せ1%程度で、昔と今とでそれほど大きくは変わらない。例外は個人に対するカードローンなどで、これは昔から10%以上の金利で貸し出している。

さて、預金金利も公定歩合にしたがって上下し、こちらはほぼ1%公定歩合を下回るので、預かったおカネを貸し出すことで銀行は2%前後の利ざやを得る(例えば東京三菱UFJ銀行の場合、68.2兆円の貸出金に対し約8,400億円の利ざや収益)。さて、その収益で果たして採算に乗るのか考えてみよう。

まず第一に、2%の利ざやということは、貸出金の2%が貸し倒れてしまうと収益が吹っ飛んでしまうということである。昨日書いたように、東京信用保証協会の貸倒れ率は2%である。信用保証協会や新銀行東京並みの取引先しか持っていなければ、どんな大銀行でも採算は取れないということになる(そもそも昔は、2%の貸倒れなど発生しなかった)。

そして、銀行を維持するためには、収益の中から経費をまかなわなければならない。その経費とは、銀行員のお給料(人件費)であり、一等地に支店を配置するための家賃や建物維持費用であり、手形交換や振込、公共料金支払、キャッシュカード入出金等々のサービスを提供するためのシステム経費であり、銀行として営業していることを周知するための広告宣伝費などさまざまの経費である。

既存の銀行は、それらのうちかなりの部分を過去の蓄積として持っている。だからなんとか黒字決算となり株主に配当することができるけれども、新銀行東京はゼロから始めようとしたものだからそこから構築する必要があった。そうした経費が必要であることを考えれば、貸倒れがこれほど多くならなかったとしても少なくとも10年くらいは黒字になることは考えられなかった

そして、既存の銀行が過去の蓄積をどのようにして積み上げてきたのかというと、実はそこに秘密がある。昔は銀行からおカネを借りると、その一部を預金として置いておかなければならないという暗黙のルールがあったのである。これを歩積・両建(ぶずみ・りょうだて)という。

例えば5000万円が必要な企業があるとする。この企業は銀行から例えば1億円を借りて、5000万円を預金として置いておかなければならなかった。つまり、必要なおカネよりもたくさんの金利を払わなければならなかったのである。こうした裏技により、銀行は収益を確保していた。その一部をコンペ費用とか預金者サービスに振り分けることもできたのである。

そうした裏技が使えなくなった経緯もいろいろあるのだがそれは置くとして、ここで言いたいのは、ゼロからスタートする銀行がすべての経費をまかなって黒字になることは、いまの時代考えられないということである。その意味では私鉄と似ているかもしれない。これらの業態は過去の蓄積によって、なんとか生き延びることができているのであった。

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2008/03/25

黒字になるはずがない新銀行東京

首都圏以外ではどの程度報道されているかよく分からないが、新銀行東京が大騒ぎである。現時点で累積赤字が1000億円を超え、とりあえず緊急支援として400億円が必要ということで、東京都としてはこのまま支援を続けるか、それともこの際つぶしてしまった方がいいのか、という話である。

このことについて驚くのは、どうやら東京都と石原都知事は、新銀行東京がちゃんと軌道に乗ると本気で考えていたらしいということである。何人かの識者が述べているように、この銀行が都の支援なしで独り立ちできる可能性は最初からほとんどゼロだったのだから、この事態を想定してなんらかの準備をしていないというのは信じがたいことである。

私自身社会人生活の最初1/3は銀行員として過ごしたので、新銀行東京の経営が立ち行かないことについてある程度の「土地勘」はある。そこで、なぜそう断言できるのかについて述べてみることにしたい。

なお、新銀行の構想そのものは石原都知事の再選時の公約であり、このこと自体ある筋からの強力なプッシュによることは明らかである。が、このことをあまり突っつくと日本の暗部(村上春樹いうところの地下のみみずくん)を刺激することになるので、ここではあえて触れずに、ビジネスプランそのものについての議論にとどめる。

新銀行東京のコンセプトは、銀行や信用金庫など既存の金融機関で十分にそのニーズに応えることのできない中小企業に対して、基本的に無担保で資金を貸し出していこうというものである。「ニーズにこたえることのできない」というのはつまり、銀行や信用金庫が貸してくれないということである。

銀行や信用金庫がその企業の信用力をどのように判断するかというと、業績(もうかっているか)や業歴(どのくらい長くやっているか)、経営者の資産(金持ちかどうか)などを中心に審査する。銀行にとって貸し倒れは最も恐ろしいものだから、それを避けるために最大限の努力をする。

したがって、中小企業のほとんどはまず制度金融(国民生活金融公庫など)から取引を始め、次に信用保証協会の保証付の融資、次に一部上場企業の手形割引と進んでようやく不動産担保の長期貸付となり、無担保融資はそうした実績を積んでからようやくというのが昔の銀行取引であった。

さて、新銀行東京が取引先としたのはそういうレールに乗ることのできない、信用力の低い企業がほとんどであった。ご存知のようにちゃんと担保をとっていた銀行も、バブル崩壊(地価の下落)により大きなダメージを受けた。担保をとらないで信用力の低い企業に貸し込んだらどうなるか。

同じような取引先について、銀行に対する保証人となっている信用保証協会という団体がある。東京都に住所を持つ企業については、東京信用保証協会である(大阪の場合、大阪府と大阪市がそれぞれ信用保証協会を持っている)。ここは財務状況をディスクローズしている。

ここのホームページをみてみると、平成18年度の場合、約4兆2千億円の保証残高(銀行にとっては貸出残高)に対して、代位返済額(延滞・倒産のため銀行に対して代わりに支払った額)が約840億円である。東京都内、かつ信用保証協会だけで、年間800億円以上が貸し倒れているということである。これが平成14年度には年間2500億円あった。

減少分のうち新銀行東京に行った部分がかなりあるとみることもできるが、ここで重要なのは、信用力の低い中小企業に貸すということは必ず貸し倒れのリスクを伴うということである。そして、信用保証協会にしても、国民生活金融公庫にしても、その赤字は結局のところ税金で穴埋めされる。

新銀行東京も同じことをやろうとする以上、同じように毎年貸し倒れによる赤字が出るはずだし、それを穴埋めするための東京都の支援はランニングコストとして毎年必ず発生する。それを見込んでも必要だから新銀行を作ったのかと思っていたのだが、黒字になると思っていたようなのだからどういう頭の構造をしているのか理解に苦しむのである。(この項続く)

p.s.本日(25日)午後3時以降、niftyのメンテナンスのため更新・コメントの入力ができません。次の更新は明日(26日)の午後になります。

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2008/03/17

最近の典型的な週末 ~せいうち日記18

3月15日土曜日、8時起床。医者の日なので、朝は食べられない。9時前には行って順番待ち。空腹時血糖130、ヘモグロビンA1cが6.5。「うーん、心臓がちょっと大きいかも。」と気になることを言われるが、数値はこんなもんだろう。今回は1週間お酒を飲んでいないので、もう少し良くなっているはずだ。

薬局で薬をもらって帰ったら10時。昨日の残りのカレーと食パンで朝ご飯にした後、車で図書館へ。途中でガソリンスタンドに寄る。リッター147円。満タンにしようと思ったが、35リットルまで入れて止める。

千葉ニュータウンに越してきて9年、図書館に駐車場がちゃんとあるのはありがたいといつも思う。前に住んでいた船橋市では、図書館の駐車場はいつ行っても一杯で、仕方なく有料駐車場を使っていた。図書館を2つ回って、6冊借りる。ついでにTSUTAYAに寄って返却。今週借りた中では「真夜中の弥次さん喜多さん」が面白くて、繰り返し5回見た。「なまか」の西遊記がようやくあったので借りる。

家に戻ると12時を過ぎている。クロワッサン1つとバナナを食べて、駅へ。電車を乗り継いで部室に着くとちょうど2時。この日のスト杯ミニは「デュース・トゥ・セブン」、強い手を作った方が負けというゲームである。がんばったのだが、ファイナルテーブル6着でゲームセット。

5時すぎに終わったので、しださんと隣のラーメン~近くのコーヒーをご一緒して、マカオやテニアンやラスベガスや、ボクシング、ポーカーについてお話しする。「今夜のテーマは相手のレイズへのコールorリレイズです」としゃべってしまい、その瞬間しまったと思う。同じテーブルになったらどーするんだ(実際、残り2テーブルから飛ぶまで同じテーブル)。

6時からはストラドル杯メイン。同じテーブルの人たちと、OPPCの話題などで盛り上がる。Bad Beat Barではtagamanが厨房をやっているという話を聞いて、久しぶりに岡山に行きたいなあと思ったりする。ゲームの方は、開始30分で私のAKレイズに左隣のさとーさんがリレイズオールイン。コールしたらAAが出てきてがっぽり削られる。そのまま1200点まで沈むが、奇跡的に5000点まで戻す(ATvsAKが出たので)。

また沈んで、また浮いてなんてことを繰り返していたら、いつの間にかファイナルまで残ってしまった。最後はBBから64sで何も起こらず8着でゲームセットとなったが、この日は4時間でAA2回、JJ、TT、99が2回、AKが5回くらい、AQとAJが2回ずつ、ATも5回と私にしては異常に手が入ってスリリングな1日であった。

16日、日曜日。6時半には目が覚めてしまう。コーヒーを沸かしたが、牛乳がない。車で近くのセブンイレブンまで。帰ったら奥さんが起きてきた。ほうれん草を炒めて老抽(中国しょうゆ)で味付けし、トーストにチーズとハムを乗せて朝ご飯。

8時からはブログの原稿書き。ついでにボクシングの最新情報をチェックして、競馬のメインレース(フィリーズレビュー、昔の阪神4歳牝馬特別)も買ってしまう。10時前には着替えて隣村のスポーツジムへ。

いつものサーキットトレーニングとジャグジーとマッサージ(チェア)でみっちり3時間。同じ負荷をかけてもしんどい時と楽な時があるが、この日は楽だったのでついついウェイトを上げてしまい、つらい思いをする。家に帰ってお昼ご飯は冷凍のカレーピラフ。中国製ではなく、奥さんが残りご飯でまとめて作ったものである。

2時からはラグビーの日本選手権決勝をTV観戦。ノーサイド後速攻で競馬のメインレースを見る。その後奥さんと夕食の買い物に行き、帰ってから三洋電機優勝のブログ記事を書いてupする。夕食はわが家風しゃぶしゃぶ(牛肉と豚肉両方)。

夕飯の後は「西遊記」のDVDを見て、その後このブログを書いている。最近多いのは、こんな感じの週末である。

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2008/02/26

「春分~夏至」と「秋分~冬至」どちらが長い?(続き)

さて、地球が太陽を回る軌道は楕円と説明したが、円との差はわずかである。地球と太陽の平均距離は約1億4950万km。近日点での距離が約1億4700万km、遠日点での距離は約1億5200万km、近日点と遠日点の距離差が1.6倍ある冥王星などと比べるとその差は小さい。

だから、地球が太陽から遠ざかる時期(夏)の方が動く距離が長くなるといっても、それだけでは夏の日数が多くなることの説明は十分でない。もう一つの要因が、ケプラーの第二法則といわれる軌道上を動く速さなのである。

宇宙空間は無重力であるので、軌道上を進む地球に対してかかっている力は、「軌道上を進んできてそのまま止まらないで動こうとする力(慣性)」と「太陽の引力」である。めんどくさい理屈を省略して簡単にいうと、太陽に近づく際には太陽の引力と動こうとする力が重なって早く進むし、遠ざかる際には打ち消しあってゆっくり進むということである。

つまり冬になると、地球は近日点に近づくためより早く移動することになり、夏になると遠日点に近づくためよりゆっくりと移動する。ただでさえ動く距離が短いところに速く動くものだから冬の方が日数が少なくなり、逆に動く距離が長くてゆっくり動く夏は日数が多くなることになる。こうした理由で、質問の答えは「春分~夏至の方が長い」ということになる。

ちなみに、太陽に近づくとき地球は北半球の面を太陽に向けているため(北回帰線のあたりが正面になる)、北半球の冬は比較的暖かく、太陽から遠ざかるときには南半球の面を向けているため、北半球の夏は比較的涼しい。逆に南半球は、夏はより暑く冬はより寒いということになる。

この「惑星は太陽に近づくと、より速く動く」法則を発見したケプラーであるが、その観測結果の多くはお師匠さんであるティコ・ブラーエのものであり、その点ではうまいことをやったといえなくもない。

地動説(地球が太陽の周りを回っている)を理論的に確立したのはコペルニクスであるが(だから画期的なことを”コペルニクス的転回”と今でも言う)、ティコ・ブラーエは「他の星はすべて太陽の周りを回っていて、その太陽が地球の周りを回っている」という地動説まであと一歩という理論に達しており、その意味でも惜しいんだけどなーという人である。

p.s.えーと、申し上げにくいのですが、現在マカオ遠征しておりまして次の更新はおそらく木曜日となります。よろしくお願いします。

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2008/02/25

「春分~夏至」と「秋分~冬至」どちらが長い?

月曜夜7時のフジテレビで「ネプリーグ」という番組がある。この番組は結構おもしろい問題が出されるので、頭の血管の通りをよくするのにいいのではないかと思ってよく見ている(とはいっても、さすがに番組の途中でないと家に着かない)のだが、先週かなり興味深い問題が出た。

それは、「どちらが長い?”春分~夏至”と”秋分~冬至”」というもので、約5秒で答えを出さなければならない。一瞬引っかけ問題かと思ったものの、どうやら普通の問題である。一緒に見ていた家の奥さんは、「夏の方が日が長いんだから”春分~夏至”に決まってるじゃん」と全く間違った理由で正解を出したのだが、私は時間内に答えが出せなかった。くやしいので、ちゃんと調べてみた。

カレンダー的には、春分が大体3月21日、秋分が9月23日(ずれることもある)。ここですでに2日分、夏の方が多い。加えて、夏は大の月(31日)が多く、冬は2月が28~29日しかないので、さらに3~4日分ずれが生じる。だから夏の日数の方が1週間前後多くなるが、これは結果であって理由ではない。

まず春分や冬至は何かということであるが、これは太陽と地球との位置関係により決まってくる。暦ができた頃はまだ天動説の時代であり、また北半球で文明が発生したので、太陽が最も北から昇る日(最も昼の長い日)を夏至、最も南から昇る日(最も昼の短い日)を冬至、真東から昇る日(昼と夜の長さが等しい日)を春分・秋分とそれぞれ定めたのである。

これを地動説の見方から説明すると、コンパスで円を書いたときその中心が太陽、円周を地球の軌道とすると、中心(太陽)を通って上から下、左から右に直線を引いて円を4等分し、直線と円が交わったところにそれぞれ春分・夏至・秋分・冬至という名前をつけたということになる。

ここまでの話だと、春分から夏至も、秋分から冬至も円周の1/4の長さであり長短はないということになるのだが、実際には地球が太陽を回る軌道は円ではなく楕円である。楕円には2つの中心(焦点という)があり、その1つが太陽である。ということは、太陽に近くなるときと、太陽から遠くなるときがある訳で、遠くなるときの方が地球が長い距離を動かなければならないので、遠ざかる時期の方が日数が多くなる。

そして、地球が太陽に最も近くなる日(近日点)は、今年の場合1月3日(これもずれることがある)。つまり、冬の方が地球が動く距離が短いので、”秋分~冬至”の方が短くなる。逆に”春分~夏至”の方が長くなることになるが、まだこれは理由の半分なのであった。長くなったので、続きはまた明日。

p.s.えーと、申し上げにくいのですが、ただいまマカオに遠征中(のはず)ですcatface。コメントのお返事は水曜日以降になります。すみません。

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2008/01/30

鍾乳洞事故にみるアニミズム(続き)

昨日は日咩坂鍾乳穴(ひめさか・かなちあな)の事故について、「地底湖の奥まで泳いで行き、そこの壁をさわってくる」という慣例があって、それが事故に結びついた可能性の大きいこと、そしてその行為そのものがまさにアニミズム(自然物崇拝)であることまで書いた。

アニミズムとは何かというと、現代の宗教、仏教とかキリスト教とか、そういうものが登場する以前、原始時代から人類に備わっていた3つの宗教的な概念(考え方)のうちの一つで、他の二つはトーテミズムシャーマニズムである。

このうち最も分かりやすいのがシャーマニズムで、「神がかり崇拝」と言えるかもしれない。神がかり状態になって神託や予言を行う巫女、予(預)言者、霊媒、呪術師、聖者などを信仰するというもので、古くは卑弥呼がそうだし、キリストや釈迦もシャーマンである。現代でいえば、細木数子や江原啓之が本当に目に見えないものが見えると思っている人がいるとすれば、シャーマニズムということになる。

次にトーテミズムとは、「祖霊崇拝」とでも言うべきもので、自らの守り神として、祖先や特定の動物、それらの合わさった精霊的なものを崇拝する。アメリカ・インディアンのトーテムポールがあまりにも有名だが、墓石だって卒塔婆だって盆飾りだって、りっぱなトーテミズムだ。人が亡くなったらお墓を建てるのは当然と思いがちだが、他の国や他の時代を調べると、そんなことはないということが分かる。

これら二つの原始的な宗教概念は今日でも形を変えて残っているが、アニミズムはあまり表面に出てこない。なぜかというと、かつて人類が恐れ敬った太陽や山、雷といった自然物が科学の発達により全く不思議なものではない、ということになったからである。しかし、それらがかつて崇拝され信仰の対象となったことは確かである。例えば浅間神社はもともと富士山信仰だし、出羽三山神社(月山・羽黒山・湯殿山)や箱根神社(箱根山)もそう、伊勢神宮の天照大御神も太陽信仰である。

昔の話だが、日本中どこの山に登っても、それがどんなに無名の山であっても、頂上には必ず誰かがいる、と言われていた。山登りをされた方にはお分かりいただけると思うが、山頂は必ずしも展望が開けているという訳ではない。それでも山登りする以上は山頂に行かなければならないというのは、アニミズム以外の何物でもない。

同様に、危なければそこまで行かなければいいものを、一番奥まで行かなければ探検したことにならないと思ってしまったのも、日本人の心の奥底に眠るアニミズムの衝動だったのではないだろうか。そうしてみると、現代にも原始時代からの宗教概念が残っている、つまり縄文時代から考え方の仕組みは変わらないという説はかなり説得力を持つということになる。

ちなみに、この鍾乳洞はそのまま日咩坂鍾乳穴神社(ひめさか・かなちあな・じんじゃ)のご神体であり、ここが古くから神の住処として崇拝されてきたことを示している。神の住処とされた理由の一つとして、ずっと昔からここに入り込んで出て来なかった人がたくさんいるんだろうと思う。

今回のニュースを読んで、そういうずっと昔のことを想像すると、なんだか不思議な気がする。

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2008/01/29

鍾乳洞事故にみるアニミズム

今年に入ってあまり興味を引くニュースはないのだが、その中でわたし的に一番関心があったのは(ほとんど報道されないのだが)鍾乳洞で大学生が行方不明となったというニュースである。

岡山県にある巨大鍾乳洞、日咩坂鍾乳穴(ひめさか・かなちあな)の最奥部にある地底湖で、今月5日高知大の探検部員が行方不明になり、知らせを受けた岡山県警の機動隊やボランティアが捜索したものの発見されず、二次災害の危険が大きいことから捜査が打ち切りになったという。

国立大学のサークル活動に大学側の管理が入っていたということは考えづらいので、おそらく「学生の自主性を尊重する」という誰も反対できない建前のもとに、学生さんたちが「おきらくごくらく」気分で十分な装備や事前準備なしに危険地帯に踏み込み、予期しないアクシデントに適切に対応できなかった、ということがこの事故の根本にあったと考えられる。

そして、この部(学術探検部)の部長も副部長も女性、当日地底湖を探検したリーダーも女性だったらしい。この鍾乳洞はかなり危険な場所がある(だから捜索が打ち切られた)ということだから、もちろん彼女らも何度かは行った経験があったのだろうが、女性がリーダーという一事をとってみても、彼らが危険性を甘く見ていたということをうかがい知ることができる。

アクシデントに直面したとき求められるのは体力と決断力、そして瞬発力(火事場のバカ力というやつ)である。こういうものは男が体の構造として多く持っている。そして、「危ない場所に女性を近づけない」というのは、おそらく男尊女卑とかそういうことではなくて、霊長類には合理的な考え方のはずである(女より男の方がスペアがきくので。一方で、「危ないことをする」のは女性と子供というのが相場)。

とはいえ、私が言いたいのはそのことではない。この種の事故はあまり聞かないとはいっても全くないわけではなく、例えば1992年の風船おじさん、1987年の忍野八海におけるテレビ朝日クルーの事故、さらにさかのぼると1960年代の龍泉洞の事故などがある。

おそらくニュースにはならないだけで、昔からこういう事故はあったのではないかと思う。そして、科学だ技術だと言っても日本人の根本にある考え方の仕組みというのは縄文時代から今日まで変わらないという説があるが、これはかなり説得力がある。高い山があれば上りたいし、深い穴があれば奥まで行ってみたいと思うのは、おそらく個人の好みというよりも遺伝子のようにインプットされた考え方の仕組みなのである。

調べたところによると、日咩坂鍾乳穴の探検隊には「地底湖の一番奥まで泳いで行き、そこの壁をさわって来る」という慣例があって(ここの大学だけではなく)、そのため行方不明の男性は一人で地底湖を泳いだということである。風呂だって洗濯機だって、水位が低いと水流が激しく吸い込まれやすい。この時期は地下の水量が少なく(多ければ途中の穴が水でふさがってしまい奥まで進めないらしい)、そのため地底湖の水位も低く、危険が増したのではないかと考えられる。

それにしても、「一番奥まで行ってさわってくる」という行為は、そんな危ないことするなよという感じなのだがなんとなく分かる。これを読んでいる方も、そんな気がしませんか?その「なんとなく分かる」というところが上に述べた「日本人の根本にある考え方の仕組み」なのである。そしてそのことは、アニミズム(自然物崇拝)と深く関わっているのではないか。

長くなってしまったので、続きは明日。(この項続く)

p.s.山陽新聞ニュース
http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2008/01/08/2008010810313423012.html

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2008/01/28

中近両用メガネ ~せいうち日記17

年末に受けた人間ドックの結果が先週送られてきた。

開くと最初に総合評価があり、いきなり「かなり太りすぎです。減量しましょう」「メタボリックシンドロームです」「糖尿病です」「肝機能に異常を認めます」などなど気の滅入るような指摘が続く。なんだ、良かったのは血圧だけで、あとは良くなっていないのかなあ、と検査数値のページを開く。

すると、ヘモグロビンA1c 6.1、GOT 20、GPT 19、γ-GTP 104、コレステロール 247、中性脂肪 159、なんだ全然悪くない、というより去年より良くなっている

健康診断というのは良くなったことを何にも書かないで、異常値が出ているものを指摘しているだけなんだから、気楽な商売だなあと思う。毎年受けてるんだから、例えば過去と比べてどうだとか、数値の変化はいいことなのか体調によってありがちなことなのかとか、そういうことを教えてほしいものである。まあ、結局自分で考える方がいいに決まっている。自分のことなんだから。

さて、健康診断に含まれていないことで最近困っているのは、目である。これまで遠近両用メガネをかけていたのだが、だんだん合わなくなってきた。もう作ってから5年近く経つので、まあ仕方ないだろうと思って眼鏡屋に行った。

さっそく奥に通されて検査である。最近は赤と緑のどちらがよく見えるかとか、何本かの線のうちどれが濃く見えるかというやり方なので、測定器の傾向が判断できない。「右」とか「上」とかで調べるなら、わざと「分かりません」と答えて強めの度にしてもらうのだが。

「右目が合っていないようで、見えづらいんですよね」
「うーん、度は変わってないですよ。遠くと近くと、どちらが見えづらいですか?」
「近くが見えづらいです」
「おそらく、目が“遠”と“近”の切り替えに時間がかかって、うまく調節できてないんでしょう。これも目の老化で、ある程度仕方ないですね。最近は、こういうのもありますよ」

と言って出してきたのが「中近両用メガネ」である。

「通勤や運転をする時は近視用のメガネをかけて、室内では中近両用をかけるようにすれば、目に負担はかからないし、コンピュータやテレビを見るならこの方が見えやすいですよ」

で、試しにそのレンズをかけてみたら、なるほど中距離、50cmから3mの範囲はよく見える。それで作ってしまったのだが、よく考えるとみごとにセールスの罠にはまってしまっている。結局、メガネを一つ増やすことになってしまった。

そして、確かに“中”と“近”を切り替えるときには疲れないのだが、ここで“遠”のメガネにかけかえるとやっぱり右目のピントが合わない。買ってしまった以上、目をメガネに合わせなければならないなあと思っている今日この頃である。

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2008/01/21

新春企画 成田新高速・千葉北道路の現状(完結編)

再び村に向けて入っていく。くねくねと曲がりながら登っていく道を5分ほど進むだけで、工事なんて一体どこでやっているんだろうという田園地帯になる。正月で工事も休みなので音もなく、鳥の声すら聞こえない。距離的に言って、工事が行われていれば結構うるさいような気がする。

しばらく行くと台地状になり、道が平らになる。農家が1軒と畑、上ってきた印旛沼側は竹林となっている。ここで、真新しい舗装道路を発見。1車線の狭い道だが、崖の方に伸びており行き先には家もない。工事現場に向かう道のようだ。 ここをたどっていくと、まさに工事現場であった。

下の写真にあるように、ここから高低差でいうと30~40m下まで、おそらく道路になるであろう工事現場となっている。印旛沼側からみると山が削られて茶色くなっていたのが、私がカメラを構えている地点になる。 そして、そこでそのまま180度振り向いて撮影したのが、次の写真である。この景色が、五十年近く昔、私が子供の頃を過ごした下総地域の代表的な田園風景である。

ご覧の通り、何もできていない。ただし、画面中央の何百mか先にブルドーザーが見えるから、おそらくここも近いうちに工事地域に入ってしまうのだろう。 私が子供の頃たくさんいた、めだかやたにし、蛙やどじょうやいろんな動植物が、ここにはわずかながら残されていたはずである。しかし、上の写真のようになったら、それも難しい。ちなみに、最初に書いた「吉高の大桜」は、この写真の右側の山の上を100mほど行ったところにある。

もちろん、環境だの自然だの言っているのは我々都会に生活する者の感傷のようなもので、ここにずっと住んできた人達にとって半日歩いても自動販売機一つないなんてことは不便以外の何物でもなく、広い道路や鉄道の開通による利便性の向上はそのまま生活の改善につながる。だから、豊かな自然をそのままに、なんていうのは一種の偽善なのであろう。

ただ、いま羽田空港の拡張にそれほどの障害(漁業権とか)がなくなり、国際線乗り入れの可能性が大きくなっている中、成田空港へのアクセスを改善しようというのは羽田との競争という側面が大きい。必要な開発ならば仕方がないが、もしかすると将来ほとんどの国際線が羽田から飛ぶようになって、この開発はムダだったということになる可能性はないのだろうか

そんなことを考えながら2つほど山を越え、最初の国道464号線との交差地点まで戻ってきた。時間にして3時間弱。いいお散歩コースである。ただ、ここにコンクリートの支柱が林立するようになれば、歩こうという気にはおそらくならないだろう。あと2、3年でここが本当にそうなってしまうのか、折に触れて見に来てみたいと思っている。

p.s.新春企画「成田新高速・千葉北道路の現状」はさっそく本編HPにまとめました。こちらへ。

Imgp0266 村側の高台から印旛沼方面に向けて建設中の工事現場。

Imgp0267 上の写真から180度振り返るとこうなる。昔から変わらない田園風景。

Imgp0271 さらに山を2つ越えたあたり。こんな感じで工事が進められている。

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2008/01/15

新春企画 成田新高速・千葉北道路の現状(続き)

まず、国道分岐点から北東へ。印旛沼をめざして進む。というのは、現在、国道464号が印旛沼を渡るのは甚兵衛渡しといわれる地点であり、そこと斜めに交差するような形で成田側の工事が進められていることから、まず印旛沼の渡河地点を確認しようという訳である。

田畑や低い山、ところどころ農家が点在する田園地帯を歩くこと約1時間、印旛沼の湖畔に到着。平らな地平線に、成田空港にこれから着陸しようとする飛行機が見える。しかし、工事現場らしき機材までには、まだかなり距離がある。どうやら、線路は印旛捷水路の向こう側(成田側)をしばらく走るようだ

印旛沼は江戸時代の田沼意次の頃から干拓が進められていて、私が子供の頃はまだ「W」型を保っていたのだが、いまでは「ウォン(Wに-)」型になっていて、真ん中の横棒の下はすでに埋め立てられてしまった。そしてこの真ん中の棒「-」にあたるのが印旛捷水路で、ここから印旛沼の水を新川(下流で花見川に合流して東京湾へ)に流しているのである。

しかしもともとは水路だから、沼よりも地盤は固いし、水深も川幅もそれほどない。だから沼に橋をかけたりトンネルを掘ることと比べれば、コストも低くてすむし安全だろう。問題は沼地に生息する魚や野鳥への影響であるが、最近の印旛沼といえば「カミツキガメ」が代名詞となっているくらい外来生物が繁殖してしまっているだけに、自然保護を訴えるだけの力強さに欠けるのは確かだ。

湖岸のサイクリングロードに沿って、南へ進む。500mばかり行ったあたりが渡河地点らしく、新しい橋の骨組みが作ってあり、そこからこちら(印旛村)側に、やはり田んぼを埋め立てて大規模な工事現場となっている。

この成田新高速鉄道ができると、うちの近くの駅から成田空港まで営業キロ数で約20kmと至近距離になる。電車なら約15分(駅3つ)、自動車なら30分弱で着く計算になる。それはそれで大変便利なのだけれど、今だって40~50分あれば着く。

いま大変にのどかなこの景色の中に、あと1~2年の間に間違いなく無粋なコンクリートの支柱が建てられ、おそらくその上に成田新高速鉄道が、下には千葉北道路が建設されることになる。のどかな景色を見ながら歩くのはとても気持ちがいいのだが、コンクリートの支柱を見ながら歩くのはあまり気分がいいものではない。

事実、私が千葉ニュータウンに越してきてから今回が9度目の正月なのだが、その間にも線路は伸び道路は増え、気持ちよく歩くことのできるお散歩コースはだんだん少なくなってきている。これからしばらくすると毎日散歩しなければならなくなるというのに、これはあまり望ましいことではないような