2008/05/09

古事記の謎(2) ~常識で考える日本古代史40

3.1 古事記の書かれた背景(続き)

前回のあらすじ
古事記は680年頃天武天皇の発案により古代の記録を集めることからスタートし、712年元明天皇の時代に完成した。歴史の記録である以上、同時代のことが書かれていないのは分かるが、実際には100年前の記事もほとんどない。

このことは、古事記から8年後に完成した日本書紀と比べてみるとよく分かる。日本書紀は持統天皇紀が天皇の記録としては最後の部分となっている。

さて、この持統天皇の在位は690年から697年、日本書紀が完成した720年からみると、20~30年前のことである。当時の平均寿命は50代くらいだから、長老級の長生きした人達にとっても若い頃にあったことであり、歴史書に書かれていてもおかしくはない。おかしくはないが、このことと比べると、古事記に100年前のこともまともに書いていないというのは不思議である。

ここでひとつ考えられるのは、「事件として生々しすぎて書けない」という事情があったということである。古事記を発案したとされる天武天皇は672年の壬申の乱で近江朝廷(天智天皇の系統)を滅ぼして政権を掌握した。その天智天皇は、645年の大化改新で蘇我氏を滅ぼして政権を掌握した。その蘇我氏の政権は、推古天皇と聖徳太子の時代に蘇我馬子が大臣(おおおみ)になることにより確立した。

だから680年に古事記の編集が始まった時点で、天智天皇の功績をどう評価するかということは書きにくいし、さらに蘇我氏の評価、推古天皇や聖徳太子の評価についてもそのこととつながるので書くことは難しいかもしれない。しかし、せいぜいそこまであって、それより以前の天皇の歴史(業績)を書かない理由にはならないはずなのである。

ではなぜ、古事記には顕宗(けんぞう)天皇までしか実質的な記載がないのだろうか。推古天皇は33代、顕宗天皇は23代とされるので、天皇の代数としては10代、そして世代的には、(この二天皇の血縁関係は直系ではないけれども)ほぼ曽祖父世代にあたる。およそ100年と考えてよさそうだ。推古天皇まで100年間の事件は「生々しすぎて」書けなかったとして、さらにその前の100年は何の差しさわりがあって書けなかったのか。

そのことを考察する前段として、天皇の位がどのように継承されてきたか。いわゆる皇位継承について確認しておきたい。皇位は初代神武天皇以来現在に至るまで、「万世一系」つまり途絶えることなく男系男子により継承されてきたことになっている。しかし公式に残されている記録からだけでも、何度かにわたり遠い血縁関係による継承がなされてきたことが確認できるのである。(この項続く)

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2008/05/02

古事記の謎(1) ~常識で考える日本古代史39

3.1 古事記の書かれた背景

魏志倭人伝と邪馬台国が3世紀の出来事であることは間違いないが、そこから8世紀初め、710年に奈良・平城京ができるまでの約500年間、日本列島で何が起こったのかは実のところよく分かっていない。

その最大の理由は中国側の史書と日本側のそれとが一致していないということであるが、それだけでなく、日本側の史料同士でも食い違う点が多い。一応、大和朝廷の正式な国史は「日本書紀」ということになっているが、ここに書かれていることは必ずしも「裏が取れる」事実ばかりではない。

その意味で、日本書紀に先立つわが国最古の歴史書である「古事記」を再検討することは重要である。実際、「古事記」をオリジナルとして内容を整理・拡充したのが日本書紀であることは、両書を読めばほぼ確実であると思われるのである。

江戸時代に入るまで古事記は日本書紀ほどにはきちんと管理されていなかったことから、日本書紀をもとに古事記が後の時代に作られたという「古事記偽書(にせもの)説」もあることも確かである。

ただ、日本書紀自体つじつまの合わない点があるのに、よりつじつまの合わないものを後の時代に作るという意図はよく分からず、その点からみると古事記の方が時間的には先に作られたと考えるのが妥当ではないかと思われる。したがって、古事記はその最初の部分に書かれている経緯により作成された、ということで話を進めたい。

それによると、「飛鳥清原大宮で天下を治められた天皇」(天武天皇)が、各家に残されているわが国に関する古い記録には誤りや不一致が多いので、きちんと整理して後世に伝えようとされたのが発端、ということになっている。

その際、各家の記録を暗記した担当者が稗田阿礼(ひえだのあれ)である。ところがその後天皇の代替わりにより、記録を整理し文書として残す作業は行われなかったという。それが和銅五年に至り、当代の「皇帝陛下」(元明天皇)の命により、太安万呂(おおのやすまろ)が古事記として完成した、とある。

さて、以上の内容を時系列で整理すると以下のようになる。天武天皇在位は672年から686年、この時代に古事記の編集作業が始まり、和銅五年、712年に完成した。その間には、飛鳥浄御原宮から藤原京、さらに平城京という首都移転プロジェクトがあり、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、大宝律令という憲法制定プロジェクトがあった。

他にも、内政面では地方管理体制の強化、外交面では白村江の敗戦処理などの懸案事項が目白押しで、とても歴史書の編集にマンパワーを割ける状況ではなかったということは理解できる。

だから、古事記に書かれている内容は710年時点でなく680年を基準とした「歴史」のことであるのは仕方がない。同時代のことは「歴史」ではないので、その五十年前、あるいは百年前までのことが書かれているというのが普通であろう。

そして、古事記下巻は豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと・推古天皇)で終わっている。推古天皇在位は593年から628年とされているので、まさに680年からみて50~100年前ということになる。

ところが、推古天皇の記事は都のあった場所と、在位年数と、陵墓の位置だけのほぼ2、3行であり、推古天皇から前の何代かの天皇についても同様である。実質的に記事があるのは、10代前の顕宗(けんぞう)天皇までさかのぼらなければならない。(この項続く)

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2008/04/11

魏志倭人伝(21) ~常識で考える日本古代史38

2.5 倭人は何を食べていたか

前回のあらすじ
狩猟からコメの生産に特化するためには、いくつかのリスクがある。年に一度の収穫しかないこと、病虫害による収穫量の差が大きいこと、常に収奪のおそれがあること、などである。これらを解決するためには、金属器(青銅器・鉄器)が大きな要素となったのではないか。

世界的にみると青銅器の発明は鉄器よりも早いが、いずれも紀元前10世紀よりも前のことであり、日本列島に入ってきたのは同時期であるとみられる。中国本土に3000年以上前からあったものだからそれまでも少しは渡来していたと思われるが、量的に拡大したのは以前述べた「倭国大乱」、朝鮮半島からの大規模な民族流入が起こった2世紀であると考えられる。

金属器の流入がなぜ稲作において重要なのかというと、まず第一に生産性が飛躍的に増大するからである。水田を作るには、まず水路を引き、畦(あぜ)を作り、中の土を耕すという工程があるが、いずれの場合も木製品と金属製品では作業効率に大きな差がある。また、収穫の際にも、木とか貝で刈り取るのと、金属器で刈り取るのとでは能率が違う。ということは、金属器があれば、より広い水田を開き、より多くの収穫が可能となる。

加えて、水田面積が広くなることにより、病虫害のリスクも全部とはいえないが若干は軽減される。範囲が広ければ、場合によっては損害が一部の水田でとどまることが考えられるからである。

また、収奪を防ぐためにも、金属器は有効である。例えば、備蓄してあるコメを奪おうとする側と防ごうとする側を考えた場合、実は奪おうとする側の武器は金属器でなくてもいい。弓矢にせよ槍にせよ、木や竹を使ってある程度殺傷力のある武器は作れるからである。

一方で、これを防ぐ側に金属器があるのとないのとでは、守備力にかなりの差が出てくる。コメを作る側というのはいうまでもなく防ぐ側にあたり、金属製の武器、盾や防具があることは収穫を守る上でかなり有効であろう。

これらの要因により、金属器の流入によって「稲作専業になることのリスク」が小さくなり、それまで漁業を中心とした狩猟経済で生活してきた人々が、稲作という専門分野に特化した。そして、おそらくは天候が良かったり病虫害が少なかったりという運に助けられて、稲作ベンチャーは自分達が食べる量以上の収穫、つまり余剰生産力を得ることができたのではないだろうか。この連載のはじめに述べたように、この余剰生産力が、領土拡大への最初の契機となる。

そして、ここで金属器のもう一つの利点が生かされる。コメは、炊いたりお粥にして食べるのが最も適しているのだが、土器ではそれが難しかったということである。金属器である鍋・釜の出現により、日本人はコメを炊いて食べられるようになった(そして後世まで、鍋釜というのは重要な家財道具である)。これらの要因が合わさって、金属器の流入は稲作を後押ししたと考えられるのである。(この項終り)

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2008/04/04

魏志倭人伝(20) ~常識で考える日本古代史37

前回のあらすじ
縄文式土器は比較的低温で焼かれており、しかも釉薬(うわぐすり)などの表面処理が行われていないことから、現代の煮炊きのようにいろいろな調理方法が可能であった訳ではない。コメも多くの場合は蒸して食べられたと考えられている。

江戸時代後半までアイヌの人々は、男たちは狩りや漁に出て獲物を狙い、女たちは住み家の近くにいて木の実や球根の採集をするかたわら、穀物を栽培することもあった。おそらく縄文時代の人々も同じように、住居の周囲で稲作を行っていたと考えられる。

狩猟を止めて稲作に集中することも当然可能性としてはありうるが、そのためにはかなりのリスクを覚悟しなければならない。最初に指摘できるリスクは、収穫が基本的に年一回しかないことである。

例えば魚を獲る場合には、もちろん収穫量に多い少ないはあるものの、収穫はほぼ毎日ある。だからたまたま天候等の要因で収穫が得られない日があったとしても、次の日漁に出るまで食べるのをがまんすればいい。しかし、年に一回しか収穫がない場合、もし収穫がゼロだったとしたら次の年まで我慢することは人間にはできない。

第二に、現代と違い病虫害によって収穫量が左右されることである。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の中に明治時代の開拓農民のエピソードがあるが、一年目はいなごのため、二年目は天候不順のため収穫が得られなかった。古代には農薬や品種改良はなく、そうしたリスクは現代とは比較にならないくらい大きかったはずである。

第三に、古代においては現代のように治安が保たれているということはなく、大きな収穫があるということは常に他者からの収奪の可能性があることを意味する。昨今でも、秋になると収穫後の倉庫を狙ったコメ泥棒が出るくらいであり、古代においてその脅威は現代の比ではないだろう。

加えて、前回みたように縄文式土器はコメの調理に必ずしも向いているとはいえない。果実やクリ類、イモ類と違って、コメは熱を加えて調理しアルファ化しないとカロリー源になりにくいのである。

こうしたリスクを軽減化し、漁業に替わって稲作が日本の基幹産業となるためには、おそらく一つの条件が必要だったと考えられる。その条件とは、金属器(青銅器・鉄器)の日本列島への流入である。(この項続く)

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2008/03/28

魏志倭人伝(19) ~常識で考える日本古代史36

2.5 倭人は何を食べていたか

前回のあらすじ
氷河期が終わった約1万年前、縄文人のもととなる人々は南方から日本列島に入ったものと考えられる。その頃の人々は狩猟・採集により得られた食料で暮らしていたが、それまでの熱帯とは異なり四季のある温帯においては、食料の乏しくなる冬のために保存食を確保しておく必要があった。

さて、ここで人々が食料をどのように調理していたかを考えてみたい。

主なカロリー源でありたんぱく源である魚や肉は、新鮮なものであれば生でそのまま、日が経っていれば焼いて食べたであろう。特に魚の場合は、熱を加えてしまうとビタミン類が失われてしまうので、体調を整える上でも生で食べることが望ましい。

一方で、保存したりあるいは他の物と交換する場合には、いまのように冷蔵庫や保冷車がないので、魚なら干物に、肉なら干し肉にしたものと考えられる。海の水と日差しがあれば干物や干し肉を作ることができるし、火の上に吊るしておけば燻製にすることもできる。いまでもそうやって簡単にベーコンを作ることができるが、塩だけでもかなりおいしい。

一方、その頃にはまだ金属器がないので、水を入れておくことのできる容器は、木を削って作るか、貝殻の大きなものを使うか、あるいは土器しかない。土器については、縄文式だけでなく弥生式土器、さらに後の時代の土師器(はじき)に至るまで、粘土を固めて比較的低い温度で焼かれており、表面処理もほとんどされていないのである。

現代の土鍋も土器の一種であるが、土鍋がなぜ金属鍋と同じように調理に使えるのかというと、窯(かま)に入れて高温で焼いていることにより耐久性があることと、釉(うわぐすり)を塗っていることにより、土の成分が溶け出してこないからである。そうした土器が日本で作られたのは、古墳時代の須恵器(すえき)以降と考えられている。

逆に言うと、縄文式土器を調理に使おうとすると、直火に当てれば割れやすいし、煮ているうちに土の成分が溶け出してきてしまうということである。もちろん、当時の人々は今ほど神経質ではない。現代でも、インドの人々はガンジス川の泥水(われわれからみると)で顔を洗ったり口をゆすいだりしているそうであり、土器に汲み置きした水を飲んだりするくらいのことは平気だったに違いない。

しかし、例えばいまのようなやり方でご飯を炊く場合、土が溶け出してしまえばご飯は土の味になってしまうので、そうやって食べてもあまりおいしそうでない。そして実際も、コメは蒸して食べていたらしい。例えば火のそばに水を入れた土器を置き、竹や草で編んだザルにコメを入れて蒸し、柔らかくなったところを食べたようなのである。

つまり、金属器が普及する以前には、生、焼く、蒸すの3つの調理が多かったのではないだろうか。もちろん、「茹でる」ことにより食べやすくなったり、保存がしやすくなるという効果があるので(例えば、卵・固い肉・ドングリの渋抜きなど)、そういう下ごしらえ的な調理はあったと思われるが、現代のスープやシチューを縄文式土器で作ることは難しかったと考えるのである。

こうした状況の中で、稲作がどのように広まり、そして日本の基幹産業となったのかというのが次の問題である。(この項続く)

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2008/03/21

魏志倭人伝(18) ~常識で考える日本古代史35

3.5 倭人は何を食べていたか

前回のあらすじ
魏志倭人伝には、倭では冬でも生菜を食べていたとある。当時からあった野菜類としては、セリ、カブ、大根やうり、きのこ・たけのこなどが考えられるが、これだけではカロリー源・たんぱく源として不足である。

日本列島に南方からヒトが移住してきたのは約1万年前とされている。この頃、地球規模では最後の氷河期が終わり、ヒトが生活することのできる地域が北に拡大した。最初に日本列島に来た人々も、この頃黒潮に乗って北上してきたものと考えられる。

さて、その時代ヒトの食料の大部分は、狩猟・採集によって得られていた。社会学の言葉では「狩猟採集社会」といわれる。具体的には、狩りで得た動物、漁で手に入れた魚や貝類、木の実、果物、イモ・球根など採集で得た食物をとることにより、ヒトは生きてきたのである。

その時代の日本列島に移住してきた人々が、後に「縄文人」と呼ばれることになる。縄文人はもともと海の近くに住んでいた人々であり、その食べ物の多くは海から得られたものであった。海岸で採ることのできる貝や海草、カニやエビ、小魚は重要でありかつ安定的に得られる食料であったし、ときには釣ったりモリで突いたりして比較的大きな魚も獲ることができただろう。

ちょうど、よゐこの濱口が「黄金伝説」でやっているような生活である。だから、倭人伝にあるように、倭人は皆、海中の危険な動物を避けるためのまじないとしていれずみをしていたのである。とはいえ、黄金伝説でもときどきみられるように、いくらがんばっても何も獲れない時もあるし、天気が悪かったり風が強かったりすればそもそも漁に出ることができない。そういう時にどうやって日々を暮らしていたのだろう。

彼らがもともと住んでいた熱帯であれば、陸の上で得られるさまざまの食料、例えば果物やヤシなどの木の実を食べることができるし、小動物を狩ることも可能であったろう。しかし、生活圏が北に拡大することによって、彼らには四季という新たな制約条件が加わった。温帯の地域では冬に果物や木の実を得ることは難しく、また動物の姿も少なくなるのである。

だから彼らは、食料の貯蔵をしなければならなかった。食料の不足する冬を生き延びるために、秋の間に「食べる量以上に食料を収穫し保存する」ことが必要だったのである。そして、日本列島にはそれに適した食物があった。栗やクヌギ、シイ、トチといった木々は古い時代から日本には自生していたので、栗やドングリを収穫し、貯蔵したのであった。

縄文時代の遺跡からはしばしば、「縄文クッキー」が出土する。これは、栗、ドングリ、クルミやアワなどを粉末にしたものを動物の脂やヤマイモで固め、クッキーのようにしたもので、保存食として用いられたものとみられている。(この項続く)

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2008/03/14

魏志倭人伝(17) ~常識で考える日本古代史34

3.5 倭人は何を食べていたか

学校で習った歴史では、古くは縄文時代から稲作の遺跡は遺されており、弥生時代には大陸・朝鮮半島から伝わった先進文化により大規模な稲作農業が全国的に展開した、とされており、われわれの頭の中にはなんとなくそういう思い込みがある。

しかし、基本的にコメというものは調理しなければ食べられない。コメのでんぷん質はそのままでは消化・吸収がしにくく、水に入れて加熱することによりアルファ化して消化・吸収できるようになる。その意味で、手間のかかる食料なのである。

だから、稲作は「これはいいものだ」ということですぐに取り入れられ普及したというわけではないと思っている。そして、稲作というのは当時の最先端のベンチャーであり、その事業化に成功したことにより古代日本が経済成長を果たしたと考えているのだが、その前段としてまず、古代の日本人は何を食べていたのかについて考察してみたい。

前の節で書いたように、魏志倭人伝には倭国について、「倭は温暖であり、冬でも生菜を食べることができる(倭地温暖、冬夏食生菜)」と書かれている。さて、ここで書かれている生菜とは何なのであろうか。

現代において常備する野菜としてポピュラーであるのは、にんじん、じゃがいも、タマネギではないかと思われるが(カレーやシチュー、肉じゃがが作れる)、にんじん、じゃがいもが日本に伝わったのは16世紀、タマネギに至っては明治時代である。

キャベツやほうれん草も江戸時代以降、トマトは明治時代。かぼちゃはもともと「カンボジア(の瓜)」という意味で、フランシスコ・ザビエルの頃ポルトガル人が持ち込んだ。ナスはかなり古いがそれでも平安時代で、今なじみの野菜のほとんどは縄文~弥生時代には日本には存在しない。

その当時の野菜には、セリ、ネギ、カブ(すずな)、大根(すずしろ)、菜の花などのアブラナ科の葉物、ウリ、ワラビやゼンマイなどの山菜、きのこ・タケノコなどがあったと考えられる。かぶ、大根はもちろん葉も食用になるので、こうした野菜を冬の間に食べていたのかもしれない。

しかし、野菜だけではカロリー源、あるいはたんぱく源として十分でない。つまり、主たる食料はこれ以外にあったはずである。(この項続く)

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2008/02/29

魏志倭人伝(16) ~常識で考える日本古代史33

2.4. 3世紀における倭の風俗(続き)

前回のあらすじ
魏志倭人伝の第二部では倭人の酒好きについて述べられているが、大和朝廷を構成していたとみられる弥生人(新モンゴロイド)のうちかなりの部分は酒が飲めなかったとみられ、その意味でも邪馬台国=近畿説は疑問である。

他にも倭人の風俗としてさまざまの内容が書かれているのだが、もう一つ注目してみたいのは倭の気候である。

倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
倭の地は温暖であり、夏冬とも生野菜を食べることができる。皆はだしである。

倭は暖かいというのが魏の使節の第一印象である。また、その衣服についても次のように書かれている。

男子,其衣橫幅,但結束相連,略無縫。婦人,作衣如単被,穿其中央,貫頭衣之。
男は、横長の布を体に巻きただ結んでいるだけで、縫っていないようだ。女は、一重の衣を作り、その中央に穴をあけそこから頭を入れて着ている。

これを読む限り、布を一枚程度のことであり、重ね着しているようには読めない。もちろん、楽浪郡の置かれている現在の北朝鮮や、帯方郡のおかれている現在の韓国に比べると、日本は暖かい。暖かいのだが、それは決して全国一律ではない。例えば1月の気温を調べると次のような違いがある。

福岡市 最高気温 9.8℃ 最低気温 3.2℃ 12-2月真冬日 6.6日
長崎市 最高気温 10.3℃ 最低気温 3.6℃ 12-2月真冬日 5.9日
佐賀市 最高気温 9.5℃ 最低気温 0.8℃ 12-2月真冬日 21.4日
奈良市 最高気温 8.7℃ 最低気温 -0.3℃ 12-2月真冬日 46.8日
資料:気象庁HP、データは1970-2000年の30年平均。

一目見て分かるのは、九州北部と奈良の気候の違いである。真冬日とは最低気温が0℃を下回る日のことだが、冬期間3ヵ月のうち福岡、長崎はごくわずかの日が真冬日であり、佐賀市でも月に7日程度である。しかし奈良市ではその倍を超える46.8日が真冬日である。

もちろん九州北部にせよ、せいぜい1、2枚の布でしのげる寒さではないかもしれないが、冬の期間半分以上の日に池が凍ってしまう、霜が下りてしまう土地を指して、温暖というのかどうか。そして霜が毎日下りてしまうと、基本的に野菜はとれないのである。

このことからも、倭地は九州北部である可能性が大きいと考えられるのである。(この項終り)

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2008/02/22

魏志倭人伝(15) ~常識で考える日本古代史32

2.4 3世紀における倭の風俗(続き)

前回のあらすじ
魏志倭人伝の第二部にあたる倭の風俗に関する部分で次に注目したいのは、倭人が酒好きと書かれていることである。弥生人を含む新モンゴロイドは、世界中の人種の中でほとんど唯一、アセトアルデヒド分解酵素を持たない人がいる。

弥生人(新モンゴロイド)が縄文人(古モンゴロイド)と違う特徴を持っているのは寒冷地対応とされている。例えば、目や耳たぶが小さいのは冷たい外気に触れないため、体毛が薄いのは発汗により体毛が凍りつくことを防ぐためと考えられている。

冷たい空気や体毛の凍結がなぜ寒冷地において具合が悪いのかというと、それは体を冷やすことにより風邪などの病気にかかりやすくなるからと考えていいだろう。そしてアルコールの摂取ができなくなる体質(アセトアルデヒド分解酵素を持たない体質)も、同様に寒冷地における対応として発達してきたらしいのである。

酒を飲んで酔っ払い寒いところで寝たまま凍死してしまう人は、現代でもいないわけではない。死ぬことはなくても寒いところで飲みすぎれば、風邪をひきやすくなるだろう。また酒を飲むと体が温まり汗をかきやすくなるが、この汗を乾かさないままでいると防寒上望ましくない。登山で肌着素材として用いられるダクロンという繊維は、汗を吸い取りすぐに乾かすことで皮膚との間に空気の層を作り、体が冷えることを防ぐのである。

話が長くなったが、そういう事情で弥生人(新モンゴロイド)には酒を飲めない体質の人がいるらしいのだが、その比率はどのくらいであろうか。2000年に筑波大学の原田勝二助教授がALDH(アセトアルデヒド分解酵素)を持つ人の割合を全国で調査したところによれば、おもしろい結果が出ている。

1位 秋田、2位 岩手、3位 鹿児島、4位 福岡、5位 栃木、
・・・・・・43位和歌山 44位岐阜 45位石川 46位愛知 47位三重。

1位の秋田は先に述べたGGタイプ(両親からALDHを受け継いでいる)が8割近いのに対し、三重県では約4割にとどまる。またこの中には現われていないが、北海道・沖縄はもちろん上位10位以内だし、大阪、奈良は下位10位以内である。前回の繰り返しになるが、GGタイプは酒飲み、AGタイプは付き合い程度、AAタイプは酒が飲めない。つまりこの順位は、酒好きの順位でもある。

古事記によれば、大和朝廷は九州から進出して畿内に入り、神武天皇が奈良県で支配を固めたことになっている。そして、その動きと呼応するように、縄文人(古モンゴロイド)の遺伝子を濃く持っている人は北海道・東北・九州・沖縄に多く、弥生人(新モンゴロイド)は中部・近畿・中四国に多い

そして、魏志倭人伝の時代から1800年経った現代においても、縄文人の血を引く地域と弥生人の血を引く地域では、酒飲みの割合がこれだけ大きく異なる。1800年といえばおよそ70~80世代になるだろうか。これだけの世代で通婚(混血)が起こってもなお差があるということは、古代において酒を飲めない弥生人(AAタイプ)は相当の割合であったに違いないし、飲めたとしても付き合い程度(AGタイプ)が多かったと思われる。

だから、もし邪馬台国が近畿にありその後の大和朝廷につながっているとすれば、その多くは弥生人(新モンゴロイド)だったはずであり、みんなが酒好き(人性嗜酒)ということは考えにくいのである。(この項続く)

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2008/02/13

魏志倭人伝(14) ~常識で考える日本古代史31

2.4 3世紀における倭の風俗(続き)

前回のあらすじ
魏志倭人伝の第二部、倭の風俗に関する部分で、最初に出てくる記事は「倭人のいれずみ」に関するものである。いれずみの風習が近世まで残っていたのは、日本の南方と北方、つまり縄文人の風習ではないか。

縄文人と弥生人とは、日本人の成り立ちについての仮説の中で最も有力な説である、古モンゴロイドと新モンゴロイドのことである。

人類の歴史の中で最初に日本列島に定住したのは、主に南アジアから南西諸島を経由して北上してきた古モンゴロイドであり、その時期は2万年前くらいからではないかといわれている。最も早い縄文文化の遺物(土器破片)が1万数千年前、その前に先土器文化があったとされ、これらの文化の担い手は彼ら古モンゴロイドであることから、縄文人ともいわれる。

一方で、縄文時代後半から弥生時代にかけて、新モンゴロイドが朝鮮半島を経由して日本列島に入ってきたといわれている。最初に書いたように、魏志倭人伝における「倭国大乱」とはこの民族流入を指すと考えているが、その結果として鉄・青銅製品や稲作農業、織物の技術などが日本列島に定着することとなった。この新モンゴロイドを弥生人と呼ぶ。

弥生人はもともと寒いモンゴルなど北アジア方面に住んでいた民族なので、寒冷地に対応した特徴を持っている。縄文人が毛深く、耳たぶが大きく、彫りが深く、二重まぶたで目が大きいのに対し、弥生人は体毛が少なく、耳たぶが小さく、彫りが浅く、一重まぶたで目が小さい。現代の日本人の多くはそれらの特徴を併せ持っていることから、縄文人と弥生人が約二千年の間に混血して現代人になったとみられている。

さて、魏志倭人伝に戻って、この点で注目すべきは次の一節である。

人性嗜酒。
倭の人々は酒が好きである。

またこうも書かれている。魏の使いが古代日本に来て、「こいつら、よく飲むなあ」とあきれた様子が目に浮かぶような記事である。

始死停喪十余日、当時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。
人が亡くなるとおよそ十日間喪に服し、その間肉を食べない。喪主は泣き、他人は歌い踊りまた酒を飲む。

さて、現代人でも酒大好きという人はいるし、そんなには飲めないがつきあい程度には飲めるという人が多い。その一方で、まったく飲めないという人もいないわけではない。この「飲めるか飲めないか」は、アルコールを分解するための酵素を持っているかどうかによって決まり、その有無はもっぱら遺伝的要因により決まる。

体内に摂取されたアルコール(エチルアルコール)は胃や小腸から吸収されて肝臓で分解されアセトアルデヒドになる。アセトアルデヒドはさらに分解されて酢酸になり、さらに二酸化炭素と水になって体内から排出される。このうちアセトアルデヒドが悪酔いの原因となり、これを分解して酢酸(酢である)にできなければずっと悪酔いしつづけることになる。

この働き、つまりアセトアルデヒドを分解して酢酸にする働きを担っているのが、ALDH、アセトアルデヒド脱水素酵素である。このALDHを両親それぞれから受け継いでいる人がGGタイプであり、このタイプは酒が強い。両親のいずれか一方から受け継いでいるのがAGタイプで、このタイプはつきあい程度には飲める。そして両親いずれからも受け継いでいないのがAAタイプで、このタイプは酒が飲めない。

そして、基本的に世界中の人種はGGタイプなのだが、ほとんど唯一例外的にAG、AAタイプがいるのがモンゴロイドなのである。(この項続く)

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p.s.その2 明日・明後日は出張のため、お休みします。

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2008/02/08

魏志倭人伝(13)  ~常識で考える日本古代史30

2.4 3世紀における倭の風俗

さて、魏志倭人伝は邪馬台国がどこかということにのみ関心が集まっている傾向がみられるが、ここに書かれている3世紀半ばの倭の風俗も興味深いものがある。

2.2(.4)で述べたように、魏志倭人伝は大きく3つの部分に分かれていて、第一部が邪馬台国の地勢、第二部が邪馬台国の風俗、第三部が邪馬台国をめぐる事件となっている。第二部の風俗について考えることで、第一部の議論(邪馬台国=九州北部説)を補足できる部分もあるのではないかと思う。

さて、第二部の冒頭を飾っているのは、次の記事である。

男子無大小皆黥面文身
男は身分の上下なく皆が顔・体にいれずみをしている。

以下、この風俗(いれずみ)は会稽(かいけい:揚子江下流)に住む人々と同じであり、そして倭は会稽のちょうど東に位置すると続く。そして、なぜいれずみをするのかというと、このように言っている。

倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽
倭の漁師は海に潜って魚や貝を捕らえるため、いれずみは危険な魚を避けるためのまじないである。

ここで二つの点に気づく。まず第一にいれずみという習慣があったということ、第二に倭の代表的な産業は漁業であること、である。この2点が魏の使節にとって非常に印象深かったからこそ、この記事が一番最初に書かれていると考えられる。

いれずみという習慣について、近現代の日本では必ずしも一般的ではないが(特に顔)、北海道のアイヌ女性や沖縄地方の女性の一部に、明治時代に入るまで成人女性の証として顔にいれずみが行われていたことは事実である。

逆に、中国文化圏や日本書紀にみられる古代の近畿地方にはこうした習慣はみられず、逆に懲罰のためにいれずみをしたと書かれている(履中天皇紀、他)。つまり、いれずみというのは、日本にもともと住んでいた縄文人の習慣であって、後に日本に入ってきた弥生人にはその習慣はないということである。(この項続く)

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2008/02/01

魏志倭人伝(12) ~常識で考える日本古代史29

2.3 倭地とは(続き)

前回のあらすじ
魏志倭人伝の倭に関する記載、「周旋可五千余里(ひと周りするとおよそ350km)」「当在会稽,東治之東(会稽の東にある)」「女王国東渡海千余里,復有国,皆倭種(女王国を東に海を70km渡ると、また倭人の国がある)」等の記載からみて、中国にとって当時の倭地とは、九州の一部だったとみられる。

さて、その倭地であるが、当時の中国、魏にとって倭(日本)はどの程度のウェイトを占めるものであっただろうか。このことを考える上で、例えば人口がどれくらいあるかというのは一つの目安になる。機械設備のほとんどないこの時代、国力すなわちGDP(国内総生産)は人口に比例していると考えて、それほど大きく違ってはいないからである。

そして、魏志倭人伝の中で、邪馬台国に至る「里程」(距離)とともにきわめて具体的に示されているのが「戸数」である。繰り返しになるが、自女王国以北、其戸数道里可得略載(女王国より北について、その戸数と距離はおおよそ記載することができる)と書かれている。

戸数に、1戸あたりの人数を掛ければ人口になる。1戸当たりの人数を推定するのは難しいが、当時の住居は、われわれが縄文時代の住居として理解している竪穴式住居とそれほど違ってはいなかっただろうから、4ないし6人、間を取って5人ととりあえず考えておく。では、それぞれの国の戸数・人口はどのように記録されているだろうか。比較すると、面白いことがわかる。

対馬国 千余戸(約千世帯=5千人)
一大国  三千許家(約三千世帯=1万5千人)
末盧国  四千余戸(約四千世帯=2万人)
伊都国 千余戸(約千世帯=5千人) 
奴国 二万余戸(約二万世帯=10万人)
不弥国 千余家(約千世帯=5千人) 
投馬国 五万余戸(約五万世帯=25万人) 
邪馬台国 七万余戸(約七万世帯=35万人)

合計すると15万世帯、75万人。その90%以上に相当する14万世帯、70万人が奴国、投馬国、邪馬台国の3ヵ国に集中している。逆にいうと、倭の国々として他に二十数ヵ国が書かれているが、基本的に倭を構成しているのはこの3つの国ということになる。そして、以前書いたように、この時代の日本全土の人口は1~2百万人と考えられるから、半分程度が九州北部に住んでいたことになる。

それでは、この世帯数・人口は中国本土に近い朝鮮半島近辺と比較してどのくらいのものだろうか。再び東夷伝に戻って朝鮮半島の各国についてみてみると、以下のようになる。

高句麗 在遼東之東 戸三万
(高句麗-こうくり-は遼東半島の東で、三万世帯=人口15万)

東沃沮 在高句麗蓋馬大山之東 戸五千
(東沃沮-とうよくそ-は高句麗の蓋馬大山の東にあり、五千世帯=人口2万5千)

濊南 朝鮮東皆其地 戸二万
(濊南-わいなん-は朝鮮半島の東部で、二万世帯=人口10万)

韓 在帯方之南 大国万余家 小国数千家 総十余万戸
(韓は帯方郡-ソウル付近-の南にあり、大きな国は一万世帯あまり=人口5万人、小さな国は数千世帯=1~2万人、全部で十万世帯余=人口50万余)

以上を読むと、東夷の国々の間で倭のウェイトがかなり大きいということが分かる。人口が判明している8ヵ国だけでも朝鮮半島の総人口に匹敵する人口がいて、それ以外にも国がある。常識的に考えるならば、当時の魏にとって、倭は辺境の小国ではなく、むしろ軍事的に脅威となる可能性を秘めていたと考えられるのである。

だとすれば、将来侵略してくる可能性がある国に対し、そこがどこにあるのか、どの方角なのか分からないし知ろうとしないということは、考えられない。その意味でも、魏志に書かれている記載は大筋において間違いはないと考えていいのではないかと思う。

文化の遅れている国が中国本土を侵略した例として、すでに匈奴-きょうど-の前例がある。秦の始皇帝が万里の長城の建設を始めたのは、匈奴の侵入を防ぐためなのである。(この項おわり)

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2008/01/25

魏志倭人伝(11) ~常識で考える日本古代史28

2.3 倭地とは(続き)

前回のあらすじ
邪馬台国から離れて魏志倭人伝の倭に関する記載をみてみると、「周旋可五千余里(ひと周りするとおよそ350km)」とある。これは、瀬戸内海を近畿まではもちろん、九州南端まで回る距離としても短かすぎる。中国にとって当時の倭地とは、五島列島から雲仙・天草・有明海あたりであると考えられる。

倭地とはどこを指しているのか。その傍証として、倭の風俗について述べた中にある次の記事も重要である。

計其道里,当在会稽,東治之東。
その(倭の)距離を計ってみると、ちょうど会稽・東治の東にある。

記事中にある「東治」については、「東冶」の誤りとする説があり、そうだとすると会稽(揚子江下流、紹興市周辺)と東冶(台湾対岸、福建省周辺)とはかなり離れているので、文字通りとらえると例えば「邪馬台国=沖縄説」などが出てきてしまう。

しかしこの文章を文脈全体でとらえるならば、会稽に封じられた夏(殷の前の王朝)の王族から始まったとされる風俗(文身=いれずみ)と倭の風俗が同じであり、倭は会稽のまさに東にあると続くのだから、地理的には会稽山あたりのことを指すと理解するのが自然であろう。

ちなみに、会稽(紹興)から海に出ると寧波(ニンポー)で、ここから東シナ海を東に進むと九州である。そして寧波は唐以降宋、明の時代まで九州から中国までの航路における中国側の港であった。

また、例の裸国・黒歯国に先立って書かれている次の記載も重要である。

女王国東渡海千余里,復有国,皆倭種。
女王国より東に海を渡り千里あまり(約70km)行くと、いくつかの国がある。それらはみな倭人の国である。

日本全国で、東に海を50~100km渡って陸地があり、しかも地続きでないという条件にかなう所はあまりない。西日本では、九州東岸から四国西岸、四国東岸から紀伊半島くらいだろう。だとすると、現在も宇和島フェリーが就航している別府・八幡浜間、宿毛フェリーが就航している佐伯・宿毛間などは、まさにこの条件にかなう数少ない候補地である。

そして、さきに述べたように邪馬台国が佐賀あたりを本拠地として有明海から大分・別府あたりまで九州を横断する地域を支配していたとすれば、まさにこの記述は距離も方角も正しく四国地方を示していることになる。(この項続く)

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2008/01/17

魏志倭人伝(10) ~常識で考える日本古代史27

2.3 倭地とは

さて、いったん邪馬台国とは離れて、「倭」つまり当時の日本列島についての中国側の認識について考えてみたい。

前節で述べたように、朝鮮半島南岸の狗邪韓国は、馬韓・弁韓・辰韓に属する国としては記載されておらず、ここからが広い意味の「倭」ということになる。そこから、海を渡って「対馬国」、さらに海を渡って「一大国」、もう一度渡って「末盧国」に達する。末盧国以降については海を渡るとは書いていないし、実際そこからは九州だから地続きのはずである。

そして、もし魏の使節が九州の広さを把握していたら、ここには「倭」の広さが書かれていたと思われる。しかし、書かれていない。だから実際に自分達で九州を一周していないと考えているのだが、では何かそれに近いことくらいは書いていないのかというと、実は書いてある。邪馬台国の所在を議論する中であまり触れられることはないが、例えば次のような記載である。

参問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千余里。
倭の地を訪ねると、海の上、島々に点在している。そして島が連なったり再びまた海になったりして、ひと周りすると約五千里(およそ350km)である。

一回り(周旋)というが、狗邪韓国(挑戦半島南岸)から末盧国(九州北部)まで3000里以上あるから、往復するとそれだけで6000里になってしまう。つまり、ここでいう「倭地」とは、最後に海を渡った末盧国より先の各国のことを言っていると考えるしかない。

とすると、すぐに気づくのは九州全部を回ったにしては短かすぎないかということである。全部どころか、九州北岸から南端の薩摩・大隈半島までとしても往復で5000里(約350km)では足りない。だとすると、どこなのか。一番無理がないのは、五島列島から天草・島原・有明海あたりを周回して戻ってくる距離で、それならばちょうど距離も合う。少なくとも、瀬戸内海を近畿まで行って戻ってくる(邪馬台国=大和説)には短かすぎるといえる。

「絶在海中洲島之上,或絶或連」というのも、邪馬台国=大和説では瀬戸内海を示すとされるのだが、瀬戸内海の場合は背景に中国か四国、どちらかの陸地が見えることがほとんどだから、この描写にはそぐわない。むしろ、五島列島あたりの景色を表現したものとみるのが妥当ではないだろうか。(この項続く)

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2008/01/10

魏志倭人伝(9) ~常識で考える日本古代史26

2.2 邪馬台国の地勢(終)

前回のあらすじ
魏志倭人伝の距離に関する記述について、「里程」(里で表したもの)と「日程」(日で表したもの)は、魏の使節が実際に行ったものと伝聞によるものの違いと考えられる。そして、投馬国・邪馬台国の「水行」「陸行」は国の広さを書いたものではないだろうか。

さて、これまで書いてきたことをまとめると、まず大前提としてこのことが上げられる。

魏志倭人伝の記述は、当時の中国の文化水準と、その後の時代において大きな訂正なく受け継がれてきたことから、根本的な間違いはないと考えられる。・・・①

そして、①から、次のことが導かれる。

帯方郡から一万二千里の記述から、邪馬台国は九州北部、海岸からせいぜい千里(約70km)以内である。・・・②

ここまでが、前提となる議論である。さて、①、②をもとに、一つの仮説として倭人伝を解釈すると以下のストーリーが考えられるのである。

末盧国:「朝鮮半島→対馬」「対馬→壱岐」「壱岐→末盧国」の距離がほとんど同じことからみて、東松浦半島ではなく北松浦半島、平戸あたりである可能性が大きい。

伊都国:平戸から南東に35~40km進むと、伊万里になる。(多数説では、糸島半島を想定するため、南東は東の誤りとしている)ここが帯方郡の使者が常駐したところとみて、何ら不自然ではない。

奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国:伊都国から東ないし南に進み、それほど遠くない(百里とかその程度の)場所となると、佐世保・有田から武雄・佐賀にかけての一帯となる。この地域は吉野ヶ里をはじめとして弥生時代の大規模集落が数多く発掘されている黄金地帯で、考古学上の証拠とも一致する。

水行二十日:投馬国が、佐世保周辺に拠点を置き、五島列島から長崎・天草あたりまでを支配していたとすれば、「私の国の広さは、一回りすると舟で二十日かかる」と言ったとしてもおかしくない。

水行十日陸行一月:邪馬台国が、佐賀周辺に拠点を置き、有明海一帯と島原、九州を横断して別府・大分あたりまで支配していたとすれば、、「私の国の広さは、一回りすると舟で十日、歩いてひと月かかる」と言ったとしてもおかしくない。

これは一つの仮説であるが、このように理解するならば①と矛盾しない。つまり、魏志倭人伝の距離や方角が全然違うという前提をおかなくても読める。そして、これは倭人伝中の他の記載とも矛盾しないのである。このことは、項を改めて述べていくこととしたい。(この項終り)

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2007/12/31

魏志倭人伝(8) ~常識で考える日本古代史25

2.2 邪馬台国の地勢(さらに続き)

前回のあらすじ
里程(距離)と移動時間を述べている部分はそれぞれ根拠が違い、「水行」「陸行」は伝聞による記述ではないかと考えられる。倭人伝の他の部分で同様の書き方をしているのは、裸国・黒歯国に関する部分である。

邪馬台国に来た魏の使節団が、そこから1年かかるという裸国・黒歯国に実際に行ったとは考えられない。では、この記事の根拠は何だったのかというと、おそらくこういった会話だったと考えられる。

魏人「他にどんな国があるのか」
倭人「南に裸国と黒歯国がある」
魏人「そこまで、どのくらいの距離があるのか」
倭人「舟で1年かかる」

後の時代の正史である隋書に、こういう記事がある。

夷人不知里数、但計以日。夷人(この場合倭人)は里で数えることを知らず、日で数えることしかできない。

つまり、倭人だけしか行ったことがない場所の距離は、「何里」という表現ができないので、何日(あるいは何月、何年)ということしか書けない。だから、「水行(海行)」「陸行」というのは、本当なら何里と書きたいのだけれど、伝聞しかできないのでやむなくそう表現するしかなかったと考えられる。

それでは、何の距離なのか。裸国・黒歯国の場合は「そこまで到達するのでの距離」であることは明らかである。投馬国や邪馬台国もそうなのかというと、そこまでの各国ではそういう書き方をしていない。例えば「東南陸行五百里、到伊都国」のように、どれだけ行くとどこそこに着くという書き方をしている。だから距離ならば、「南水行二十日、至投馬国」と書いてある方が文脈的に自然である。

その点、伊都国以降の奴国・不弥国もそういう書き方をしているのが余計あいまいさを増している。個人的にはそれらの距離記載も「もともと原資料になかったものを、他の出典により書き足したもの」という共通点があると考えているが、投馬国や邪馬台国が距離だとすると、「邪馬台国以北の距離は分かる」と矛盾する。だから私は、この記載は「国の広さを示すもの」ではないかと考えている。

つまり、韓ならば「方四千里」、対馬国・一大国ならば「方四百里」「方三百里」とその広さが記載されているが、九州という島について全く広さに類する記載がない。おそらく、魏の使者は九州を一周できなかったのではないか。だから、現地人にそれを聞こうとした。しかし、現地人は「不知里数(里で数えることができない)」、だから、「この国は、歩いて十日かかる」「舟で回ると一月かかる」と言ったのではないか。

このことについては、次の章で倭国の人口を検討する際に再度検討するが、投馬国と邪馬台国は東夷の国々の中ではかなり規模が大きく、国土の広さを示さないと記事として不完全であるという見方もできる。もちろん、これも一つの仮説であるが、そう考えることによって「魏志倭人伝は間違い」という前提を置かなくても、一連の記事が理解できるのである。

ちなみに、三国時代の後、晋の中国統一は短期間で終了し、その後の統一政権は7世紀の隋・唐を待たなくてはならない。その間、倭国に使節を派遣するほどの国力のある統一政権は現れず、それらの正史の中には「水行」「陸行」を邪馬台国までの距離と理解しているものもある。しかし、倭についての最後の記載となる「隋書」並びに「旧唐書(くとうじょ)」では、邪馬台国まで一万二千里の記載の方を生かしていることからみて、いずれにせよ「水行」「陸行」は別の根拠に基づく数字とみるべきである。(この項続く)

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2007/12/27

魏志倭人伝(7) ~常識で考える日本古代史24

2.2 邪馬台国の地勢(さらに続き)

前回までのあらすじ
「帯方郡から女王国まで1万2千里余」「女王国より北の距離は分かる」「内訳の合計が約1万2千里で、総距離と一致する」ことからみて、魏志倭人伝の記載に大きな誤りがあるとは思われない。となると、邪馬台国は九州北部ということになる。

さて、邪馬台国の北までは「其戸数道里可得略載」(その戸数や距離はおおよそ分かる)と言っており、その記載も一万二千里あまりで合計も内訳も違いがない。となると、まず考えられるのは記載のうちで「里」(距離)を述べている部分と、「水行」「陸行」など移動に要する時間を述べている部分は、根拠が違うのではないかということである。

最初に述べたように、「三国志」全体をとりまとめたのは陳寿だが、この人物は蜀出身で基本的に蜀の記事を書いたとされる。もちろん、三国志全体のヒーローは劉備玄徳はじめ諸葛孔明、関羽、張飛といった蜀の人物である。だから、どちらかというと日本列島の事情は詳しくないはずで、先行する史料(王沈の「魏書」、魚豢[ぎょかん]の「魏略」など)を参考に記述したものとみられる。

だから、「里程」の記事と「所要時間」の記事の区別ができなかった。もしかすると、そもそも原資料からしてこのように書かれていたのかもしれない。そして、何度も辺境の倭国まで行くことができないので、やむなく検証できないまま記載されることとなった。読者も、本筋には関係ないところなのであまり気にしなかったのではなかろうか。

そして、さきに述べた古田武彦氏の説では、この「水行」「陸行」は、帯方郡からの総所要時間のことを示しているとする。これもひとつの仮説であり一概に否定できないが、だとするとほぼ近くにあるように読める投馬国(水行二十日)と邪馬台国(水行十日陸行一月)が違いすぎないかという気がするし、そもそも邪馬台国の所要時間を示すのであれば、「自郡至女王国万二千余里」の後に記載する方がずっと分かりやすい。

では、何を示すのか。わたしの考えを言うと、これは伝聞なのではないか

実は、同様の記載が魏志倭人伝の中にはある。倭人伝は大きく分けて3つのパートに分かれており、第一部が邪馬台国の地勢、第二部が邪馬台国の風俗、第三部が邪馬台国をめぐる事件、であるが、この第二部と第三部の間に、「閑話休題」のような文脈で、以下の記事がある。

又有侏儒国其南、人長三四尺、去女王国四千余里。又有裸国黒歯国、復在其東南、船行一年可至。また、その(女王国東端の)南、女王国から四千里彼方に侏儒国がある。そこでは住民の身長は三四尺(約1メートル)ほどしかない。また、さらに南東に船で一年行ったところに、裸国と黒歯国がある。

このあたり、差別問題との絡みなのか(?)あまり取り上げられることがないが、「侏儒国」はこびとの国であり、「裸国」は文字通り裸の国、「黒歯国」は歯が黒い人の住む国である。そして、侏儒国までは四千里と里程を示しているのだが、裸国・黒歯国は里程を示さず所要時間だけを示してある。この書き方は、「水行二十日」「水行十日陸行一月」とよく似ている。(この項続く)

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2007/12/19

魏志倭人伝(6) ~常識で考える日本古代史23

2.2 邪馬台国の地勢(さらに続き)

前回のあらすじ
「帯方郡から女王国まで1万2千里余」「女王国より北の距離は分かる」「内訳の合計が約1万2千里で、総距離と一致する」ことからみて、魏志倭人伝の記載に大きな誤りがあるとは思われない。となると、邪馬台国は九州北部ということになる。

水行・陸行の議論に入る前に、いくつか補足しておきたい。まず、この「魏志倭人伝に大きな誤りはない」とする考え方は、1970年代すでに古田武彦氏によって提唱されている。にもかかわらずなぜ、この考え方があまり顧みられることがなかったのかというと、「東日流外三郡誌」の偽書騒動があって古田氏自身「キワモノ扱い」されてしまったことが大きい。

正直なところ、きちんとした資料(正史)がありながら、「この資料は間違っている」という前提で進められる議論というのは、どうかと思っている。そういう議論が許されるなら、どんな突飛な主張も成り立つことになるからだ。

また、前回示した計算のところで「伊都国」以降の距離を合算していないが、これはよく知られているところの「放射説」を採るものである。つまり、伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国と書いてある順に進むのではなく、伊都国を出発点として、伊都国→奴国、伊都国→不弥国、・・・、伊都国→邪馬台国と進むという考え方である。

ただし、これについてはあまりこだわる必要もないと考えている。倭人伝の記述の中に、「帯方郡の使者が倭国に派遣される際には、伊都国に滞在する」とあることから、倭国内の移動は伊都国を出発点とみるのが自然だが、いずれにせよ百里二百里(7~15km)の世界であり、大勢に影響はない。

さて、邪馬台国への途中で記載された国がそれぞれ何処にあたるかということだが、狗邪韓国が朝鮮半島の南東端、釜山とかその近辺であることは明らかだし、そこから海を渡って70kmあまりの対馬国がそのまま対馬であることも間違いない。また、対馬国から南に九州方面を目指せば次は壱岐島で、これが一大国であると考えてよさそうだ。

そして、この一大国が「魏志倭人伝間違い説」の一つの根拠となっている。これが壱岐であることは間違いないのだから、一大は一支の誤りであり、同様に倭人伝は間違いだらけというのだが、こういう主張が俗に言う「ためにする」議論というのだろう。地名というのは言葉や文化が違えば聞こえ方が違うだろうし、中国では「一大」日本では「一支」ということもないとはいえない。また、そもそも辺境の地名を中国側で検証しようがない。それに、仮に写し間違いがあったとしても、ここが違っていたからといって全体の文脈に何の影響も及ぼさないのである。

さて、一大国から九州に渡ってからがはっきりしない。末盧国は松浦と考えるのが自然だが、それがいまでいう北松浦半島なのか東松浦半島なのか。後に豊臣秀吉の「唐入り」の際、半島進出の拠点となった肥前名護屋城は東松浦半島にあり、ここが最短距離なのだが、東松浦半島から壱岐までは「半島→対馬」「対馬→壱岐」の距離と比較してかなり短く、同じ千里と書いてあることからすると若干疑問が残る。

とはいっても、これも議論の大勢に影響はない。帯方郡から邪馬台国の「一万二千里」のうち、狗邪韓国まで約七千里、そこから末盧国まで約四千里なのだから、ここから邪馬台国までは残りの一千里未満。九州沿岸のどこかからせいぜい70kmの範囲にしかならない。日本人がいくら「いや、日本の首都は大和だ」とがんばったところで、中国側は、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して九州に着いたあたりが邪馬台国と理解してきたに違いないのである。

ちなみに、九州北部は弥生~古墳時代前期遺跡の宝庫といってもいいほど各地でまんべんなく発掘されており、考古学上の証拠とも矛盾しない。そして史書の上でも、三国志(魏志倭人伝)以外の他時代の正史である晋書や隋書でもこのことは裏付けられるのだが、それはまた別の機会にして、魏志倭人伝に戻る。それでは「水行」「陸行」は何を意味するのだろうか。(この項続く)

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