古事記の謎(2) ~常識で考える日本古代史40
3.1 古事記の書かれた背景(続き)
前回のあらすじ
古事記は680年頃天武天皇の発案により古代の記録を集めることからスタートし、712年元明天皇の時代に完成した。歴史の記録である以上、同時代のことが書かれていないのは分かるが、実際には100年前の記事もほとんどない。
このことは、古事記から8年後に完成した日本書紀と比べてみるとよく分かる。日本書紀は持統天皇紀が天皇の記録としては最後の部分となっている。
さて、この持統天皇の在位は690年から697年、日本書紀が完成した720年からみると、20~30年前のことである。当時の平均寿命は50代くらいだから、長老級の長生きした人達にとっても若い頃にあったことであり、歴史書に書かれていてもおかしくはない。おかしくはないが、このことと比べると、古事記に100年前のこともまともに書いていないというのは不思議である。
ここでひとつ考えられるのは、「事件として生々しすぎて書けない」という事情があったということである。古事記を発案したとされる天武天皇は672年の壬申の乱で近江朝廷(天智天皇の系統)を滅ぼして政権を掌握した。その天智天皇は、645年の大化改新で蘇我氏を滅ぼして政権を掌握した。その蘇我氏の政権は、推古天皇と聖徳太子の時代に蘇我馬子が大臣(おおおみ)になることにより確立した。
だから680年に古事記の編集が始まった時点で、天智天皇の功績をどう評価するかということは書きにくいし、さらに蘇我氏の評価、推古天皇や聖徳太子の評価についてもそのこととつながるので書くことは難しいかもしれない。しかし、せいぜいそこまであって、それより以前の天皇の歴史(業績)を書かない理由にはならないはずなのである。
ではなぜ、古事記には顕宗(けんぞう)天皇までしか実質的な記載がないのだろうか。推古天皇は33代、顕宗天皇は23代とされるので、天皇の代数としては10代、そして世代的には、(この二天皇の血縁関係は直系ではないけれども)ほぼ曽祖父世代にあたる。およそ100年と考えてよさそうだ。推古天皇まで100年間の事件は「生々しすぎて」書けなかったとして、さらにその前の100年は何の差しさわりがあって書けなかったのか。
そのことを考察する前段として、天皇の位がどのように継承されてきたか。いわゆる皇位継承について確認しておきたい。皇位は初代神武天皇以来現在に至るまで、「万世一系」つまり途絶えることなく男系男子により継承されてきたことになっている。しかし公式に残されている記録からだけでも、何度かにわたり遠い血縁関係による継承がなされてきたことが確認できるのである。(この項続く)
p.s.「常識で考える日本古代史」のバックナンバーはこちら。
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